ちぇんじRevolution #8

第八章【NO FATE】

「どうやら、磁場はこの辺りで消えているようです」
森を抜けて開けた場所に出た時、蘇芳は異様な力が消えたのに気付いた。どうやらあの強力な磁場が張り巡らされているのは、あの森の中だけだったらしい。
すると、何かに気付いた紅袮が指を差し大声を上げた。
「あ!見て、あれ……!」
紅袮の声を聞いた一同が彼の指差した方を見ると、そこから少し離れた場所に大きくそびえ立つ、城のような建物が見えた。おそらくあれが例の幻の神殿なのだろう。
「神殿……というより、最早王宮のようだな……こんなところに七海は封印されていたのか?」
「うん、ここで間違いない。ここは元々ベガの中心部にある織女星の神殿の他に、儀式とかに使う為に建てられたんだって」
クレスの言葉に、悠は頷いて返した。
「まさかこんなところに星の主が封印されてたなんて……でも、儀式に使う為の場所ということであれば、関係者以外はほとんど近付くことはありません。封印した七海に誰一人近付くことがないようにするためにはうってつけの場所だった、ということですね」
蘇芳は辛そうに目を閉じた。
生まれてしまった心を抱えたまま封印され、一体どれだけの時をここで過ごし、そして嘆き続けたのだろう。傍に鶫が寄り添っていたというが、自らに施された封印の力は鶫の生命力をも少しずつ奪っていくものだった。日に日に衰弱していく彼の隣で、七海はただ何もしてやることができず……嘆き続けながら消失したのだ。
「っとにかく、この中に奏がいるんだな!行くぞ!」
「こら!ここは一応敵のアジトみたいなもんなんだから、勝手に突っ走らないの!」
七海の最期を思い出していた馨は激しく首を横に振ってその思考を振り払うと、目の前の神殿へ向かって走り出した。それを慌てて止めようとした杏に同調するように、どこかで聞いたことのある声が一同の耳に届く。
「そうそう、その子の言うとおりやで、馨」
馨が思わず顔をしかめた瞬間、その声の主が突然目の前に現れ、ぶつかりそうになった馨は慌てて急ブレーキをかけた。
「うっ、わ!お前はあの時の……!」
馨が名前を言うより先に、響が腕を組んで馨の前に出た。何やら明らかに怒っているようである。
「楸じゃないか。君、最近外で何か悪さをしていなかったかい?」
「あっちゃー、響まで来とったんか……まあ、お偉いさん命令だったってことなんよ、大目に見てくれへん?」
顔の前で手を合わせ、楸は懇願するように響に話す。が、響は呆れたようにため息をつくだけで何も言わない。
すると、響の背後からすり抜けるようにして悠が楸に向かって駆け寄っていく。
「楸!」
「悠!よかった、無事に戻ってきてくれはって……!でも、ちっとばかし遅かったかもしれへん……」
「……やっぱり、間に合わなかったか……」
悠は低く呟いた。最悪な状況を予想してはいたが、まさにその予想通りになってしまったのだ。
「お、おい、何の話をしてるんだ、奏はどこだ!」
「……皆が来たら通すよう言われとる。こっちや」
威勢よくつっかかろうとする馨を手招きすると、楸は踵を返し背後に建つ神殿へ向かって歩き始めた。
ここで楸と戦うことになるのかと思っていた一同がぽかんとその場に立ち尽くしていると、一人大人しく楸へついていこうとしていた悠がそれに気付き
「何してるの皆。急いで」
と急かす。
「あ、いや……随分とあっさり通してくれるんだなって思って」
慌てて楸の後を置いながら、星が言う。すると楸はへらっと笑いながら
「いやあ、俺あんまし戦うん好きやあらへんしなあ。平和主義やから」
などと話すが、すぐに真剣な表情に戻ると
「けど、気ぃつけてや。君らが取り戻そうとしとる奏は、もう奏やないかもしれへん」
そう、低く告げた。
楸の言葉に一同は沈黙する。つまり、これから奏と戦わなければならない可能性が非常に高くなったということだ。
「……やはりそうなりますか……皆さん、できるだけ私達の後ろに下がっていてください」
凪は、馨や杏達を自分の後ろに下がらせる。もし覚醒した織女星と戦うことになれば、自分達三国の妖精長とシリウスの力でなんとかするしかないのだ。
「……奏の力は感じるけど……奏の気配は全く感じられないわ……」
杏が目を閉じ奏の気配を探っていたが、すぐに首を横に振る。
その横で、馨はただ、目の前に現れるであろう奏が奏であるよう、必死に祈っていた。届かないとわかっていながらも何度も、離れた場所にいる奏に呼びかけるように、心の中で叫び続ける。
(奏……奏、俺だ、馨だ。俺が皆と一緒にお前のこと、迎えに来たんだ。だから……だから、また俺と……皆と一緒にあの星空を眺めよう、奏……!)
それくらいの時を、そうして歩いていただろう。
神殿の中に入ると、中はあの時の夢で見た内装と全く同じだった。やはり、ここはかつて七海が封印され、そして消失していったあの場所なのだ。
自分の記憶が正しければ、もうすぐ七海が封印されていたあの部屋に辿り着くはず。
しかし、今はあの時の苦しい封印の力は感じない。それとは別に、様々な密度の高いエネルギーが一つに混じり合ったような、なんとも言えない力の圧を感じる。
その力は、例の部屋に近付くにつれますます強くなっていった。
そして……──
「わざわざこんなところまで、よく足を運んでくれたな」
「えっ……」
かつて七海が封印されていた大広間で一同を迎えたのは、馨と瓜二つの顔をした青年だった。
「か、馨……!?にそっくりだ……!」
「……!」
星や紅袮は思わず青年と馨を交互に見比べてしまう。馨も、まるで目の前に鏡が置いてあるかのように自分と同じ顔をした彼を前に、言葉を失ってしまった。
すると、鶲の隣で悠が震えながら呟く。
「ど、うして……」
「すまん、悠……悠には内緒にしとったんやけど、器を作ってくれって再三しつこく頼まれてなあ……」
申し訳無さそうに楸が謝罪するが、そんな彼を響が強く睨みつけた。これは楸も昔からよく見たことのある、彼が相当怒っている時の目つきだ。
「楸、こういうことだったのか……ただの器だけなら人体錬成の禁忌にはあたらないけど、それでもかなりのグレーゾーンだ。事の収集がついたら覚悟しておいてくれ」
「ひえっ響~幼馴染のよしみや、お手柔らかに頼んます~……」
響の言葉に縮こまる楸を見て、青年はおかしそうに静かに笑った。
「はは、流石は念視の錬金術師だな。俺のこの鶲の器を、寸分の狂いもなく作ってくれた」
「鶲……お前があの、鶲……」
悠と楸が何度も話した、そして天帝がお伽噺のように語った、あの悲劇の引き金を引いた人物。初代牽牛星、鶲。
そして初代織女星のことを心から愛し、それ故に罰を受け、消えていったという自分の前世。
馨はただ、鶲を目の前に呆然と立ち尽くすしかできなかった。
「この器のお陰で、七海は俺のことを思い出し、自らの力を目覚めさせることができたんだ」
「!」
一同は息を呑んだ、やはりもう既に手遅れだったらしい。
「さあ、七海。こっちへ来てくれ。皆に挨拶を」
鶲が広間の奥へ向かって声をかけると、物陰から強い気をまとった人物がゆっくりと姿を現す。
その、まるで頭も体も全て押しつぶされてしまうかのような強い力に、クレスや凪でさえも思わず背筋がゾクリとするのを感じた。
「……」
「……か、なで……!」
きらびやかな衣装で着飾られ現れた奏は、虚ろな眼差しで馨を見ていた。馨の呼びかけに応えることはなく、ただ静かに馨の目を見つめている。その目は馨の目を写してはいるが、馨ではない何か別のものを見ている、と馨は直感でそう感じ取った。
「もうお前の声は奏には届かないさ、馨。これはもう俺の七海なのだから。俺の言うことだけを聞く……俺の為に……俺の願いを、理想を叶えるために、力を貸してくれる。なあ、七海」
「……そう、愛する鶲のためなら、私は、なんだってするの……」
奏を抱き寄せた鶲は、奏の耳元で優しく七海の名を囁く。奏は嬉しそうに頬を鶲に擦り寄せると、ゆっくりとそう呟いた。
「っ奏!」
馨が叫ぶが、奏はもう馨を見ることはなかった。鶲の胸に抱かれ、鶲だけを見て……その瞳はもう完全に奏のものではない、と馨は気付く。
「貴方が私達の持つ、アルタイルの意思の生みの親、というわけですか……まさかこんなにも歪んだ性格の持ち主だったとは……」
嫌悪感を露わに凪が呟くが、鶲はそんな悪態も気にすることなく、目を細めて笑う。
「ああ、俺の力は今は長が受け継いでいるんだったな。どうだ、役に立てているか?大切なものを、七海を助けるために、俺がアルタイル星の力の源から作ったものだ。……ああ、そういえば一時は敵に奪われるなどしていたな?見ていたぞ、お前の失態をな」
「っ貴様……!」
「凪!抑えろ!」
鶲の挑発にも似た発言に、凪の感情が一気に怒りに染まったのを感じて隣にいたクレスは思わず凪の腕を強く引いた。
しかし鶲の言う通りで、このアルタイルの意思の力を持つ蘇芳を狙ったブレウスによって凪の妹、蘇芳の母親は夫と共に殺害され、蘇芳とその姉はブレウスに拉致されるという事件があった。凪はその時丁度執務で星を離れており、妹一家を助けることができなかったことをひどく悔いていたのだ。最終的に蘇芳は自力でブレウスから脱出して戻り、その姉も一時はブレウスに洗脳され敵対していたが、今は無事に戻ってアルタイルの宮殿で生活をしている。
蘇芳達は凪が助けに来られなかったことを何も悪く思っていないのだが、今でもあの時の出来事は凪の心に強い後悔として深い傷跡を残しているのだ。その時の事件を念の状態で視ていた鶲は、それを知って凪の神経を逆撫でたのである。
しかし思わず挑発に乗りかけた凪をクレスが制止したため、鶲はすぐに面白くなさそうに鼻を鳴らすと、自分の旨に体を預けてくる七海の肩を抱き寄せ
「ふん、まあそんなものはどうだっていい。なあ、七海……」
と愛おしむように奏の頬を撫でる。
すると、今まで黙って二人のやり取りを見ているだけだった馨が急に大声を上げた。
「っ違う!奏は七海じゃない!!」
「……なんだと?」
「奏は奏だ!それ以外の何ものでもない!俺達と一緒に星を眺めたり、地球へ行ったり、他にも色々、この半年間たくさん思い出を作って……その記憶を持ってるのは七海じゃなくて、そこにいる奏なんだ!奏を……俺達の奏を返せよ!!」
鶲が強い眼光で睨みつけるが怯むことなく、馨は必死に叫び続ける。
馨のその言葉に同調するように、同じく奏と共に過ごしてきた紅袮と星も顔を見合わせ頷いた。
「馨の言うとおりだ」
「そうだぞ!そりゃ、最初は奏が織女星だったなんていきなり聞かされてびっくりしたけどさ。それでも、奏は俺達の大切な仲間で、友達なんだ。七海はあんたのものかもしれないけど、奏はあんたのものじゃない!」
「鶲……もうこれ以上奏の心を壊すのはやめて。奏の代わりに俺が力を使うから……そう言ったはず。このままではまた、奏……いや、七海と君は同じ運命を辿ることになってしまう……!」
紅袮達に続いて悠も鶲を説得するように言葉を投げかける。いつも淡々と言葉を紡ぐ普段の悠と違い、鶲に自分の気持ちをすべてぶつけるかのように悠は話す。
鶲は悠達の言うことを、彼らを睨みつけながら聞いていた。が、不意にふ、と息をつくように笑うと
「今回はそうはならないさ。俺はもう決めたんだ。七海の力を借りて……俺達以外の全てを消し去ってしまおう、とな」
そう言って奏を守るように抱きしめるのである。
最初こそ、鶲は力が使えれば悠でも誰でもいいと思っていたのだろう。しかし、あれほど愛した七海が蘇り、今自分の腕の中にいる。
鶲の考えは変わった。ただ天帝を屠るだけではなく、自分達の邪魔をするものを全て排除してしまおうと決意したのだ。
「そうだな、まずは手始めに……お前達から消えてもらおう。七海……俺に力を貸してくれ」
「!馬鹿なことを……!」
凪は鶲の強い殺気を感じ、すぐに詠唱体制に入る。
鶲は構わず、奏の耳元で悪魔のように言の葉を囁いた。
「ここにいる奴らは全員、俺を消した天帝の遣いだ。俺達の敵だ。お前の力で……俺達を邪魔する奴らを全部、消してしまおう」
「……お爺様の……鶲の、敵は……私の、敵……!」
「!まずい!皆、下がれ!!」
奏が呟くと同時、ものすごい密度の呪力が奏の元に瞬時に集まるのをシリウスは察し、叫んだ。
クレスも背筋に冷たいものが走るのを再び感じ、とっさに叫ぶ。
「凪、響!援護だ!」
「わかった!」
「くっ……!」
奏が呪術を放つと同時、シリウスと三国の長達も己の力でそれを迎え撃つ。
「うわ……っ!」
「まるでこの空間ごと消滅させてしまうような……なんて強い力なの……!」
衝撃で吹き飛びそうになった馨を支えながら、杏が呟いた。
「真の蘇生術とは違い、これは本当に「全てを拒絶する力」ですね……」
あまりの力の規模に、蘇芳も呆然と呟くことしかできなかった。
その力は周りの空気を蒸発させ、石造りの壁は全て砂となり崩れていく。
炎のような水が、風のような雷が、大地のエネルギーを吸収して強大な力となり皆に襲いかかる。
シリウス達は自分達の力でそれを相殺することで、なんとか仲間達への被害を食い止めたのだ。
「……持ちこたえたか……まあ、天帝の狗である時の神がいる時点でそううまくはいかないと思ってはいたが」
奏の力によりほぼ半壊した大広間の中、それでも変わらず立ちはだかるシリウス達を見て鶲は再びふ、と小さく笑った。
そんな中、奏の放った強大な力を目の当たりにし、馨は呆然と奏の名を呟く。
「奏……お前……」
そしてゆっくりと奏の元に歩み寄ろうとする馨を、奏は変わらず、虚ろな瞳で見つめる。その瞳にはもう完全に馨の姿は映っていない。そしてうわ言のように何度も繰り返し同じことを呟いているのだ。それはまるで「呪い」のように。
「……鶲の敵は……私の敵……」
「すごい殺気だ……馨、だめだ!俺達じゃ到底かなわないよ!」
「奏……なあ、奏……俺達、約束しただろ?ちょっとずつでいいから、近付いていこうって」
紅袮は慌てて馨を止めようとするが、馨はその手を振り払い、尚も奏の元へ歩み寄ろうとする。
その腕を、今度は凪が力強く掴んで引き止めた。
「やめなさい、馨、あれはもう奏くんではありません、七海です。奏くんの心は七海の心に追いやられて、今にも壊れそうになっているんです。これでは、もう……」
「奏の心を壊させやしない!俺が奏を助けるんだ!」
癇癪を起こすかのように叫び、馨は凪の腕を振りほどこうとする。しかしその力は先程の紅袮とは比べ物にならないほど強く、放すことができない。
次いでクレスと響も、馨を庇うように前へ立ちはだかった。
「馬鹿突っ込むな!死にたいのか!?」
「ここは僕達にまかせて、馨君は後ろへ」
「奏!奏……っ!」
大人達に遮られ、馨から奏の姿は見えなくなってしまった。それでも、馨は必死に奏の名を叫ぶ。
──もう、俺の声は……奏には届かないのか……?
馨はきつく唇を噛んだ。何度もあの、優しい奏の気配を探ろうとしても感じるのははっきりとこちらへ向けられた強い敵意と殺気ばかり。
それでも……──
「少々手荒になってしまいますが、奏君を取り戻すためならば致し方ありません。皆さん、本気でいきましょう」
臨戦態勢に入る凪に続き、クレスと響も頷くと魔力を集中させ始める。
先程の奏の一撃を受けて理解したのだ。あれは生半可な力では太刀打ちできない。
ここにいる自分達三国の長と、シリウスの力全てをもって挑まねば、奏を元に戻すことはおろか、覚醒した奏の力を凌ぐことですら難しいのだ。最早奏の力は天帝の力を超越し始めていると言っても過言ではないだろう。
「ああ、これ以上好き勝手させるわけにはいかん」
「だね。他の皆を傷つけさせないためにも」
「我らの力の全てをもって、織女星を迎え撃つ!」
シリウスの声に応えるように、彼らの元に魔力と呪力が集まり、周囲の大気が大きく揺れるのを馨は感じていた。
それは鶲も同じようで、その状況を楽しむように笑みを浮かべながら、再び奏の耳元で囁くのだ。
「七海、来るぞ。あちらは本気のようだ。お前の本気も見せてやれ。俺と、お前と……俺達の未来を守るために」
「……鶲の邪魔はさせない……!」
奏は叫ぶと、先程と同じように両手を翳し、目を閉じて意識を集中させている。二つの大きな力がこの神殿に集まり、まるで地震が起きているかのように神殿が大きく揺れ動いた。
馨は落ち着かない気持ちのまま、その光景を眺めている。
このまま二つの力がぶつかり合えば、自分達のことはおそらく蘇芳が守ってくれるだろうから、きっとかすり傷一つ負うことはないだろう。だが、自分は無事でも、シリウス達と、それに奏もきっと、無事では済まない。
(そんなの、いやだ……!)
「先程の攻撃より更に大きな力が渦巻いています!皆さん、できるだけ離れて僕の近くに……か、馨くん!?」
蘇芳が止めるより先に、馨は走り出していた。
そして両者の間に、奏の前に立ちふさがるような形で両手を広げる。
「なっ……!」
「馨!?」
「だめだあああああああああああああ!!!!!!!!」
シリウス達は突然目の前に庇うように現れた馨に驚き、咄嗟に攻撃の手を止める。が、奏は馨の叫び声と同時に攻撃を放った。
奏の攻撃は容赦なく馨に襲いかかり、馨の体を切り裂く。
その瞬間、馨はたしかに見たのだ。
奏の表情に、瞳に、奏の色が見えたのを。
「馨ーーーーーーー!!!!!」
凪の悲痛な叫びと共に、馨はその場に倒れた。
「……七海の攻撃を直に受けたか……無茶な真似を」
鶲は呆れたように呟く。その目には、倒れた馨の元に凪達が急いで駆け寄る姿が映っていた。
馨の息はかろうじてまだあった。しかし体は無数の大きな刃で切り裂かれたかのように抉られていて、床はあっという間に真っ赤な血で染まっていく。
「馨!馨!しっかりしろ!」
クレスが呼びかけると、馨は薄っすらと目を開き掠れた声で何かを呟いた。
「……か、な……で……おれ、おまえと……一緒にいら、れて……たのし、かった……」
「喋らないで!即死ではなかったことだけが救いです!蘇芳、紅袮、今すぐ蘇生術を!」
「はい!」
凪に呼ばれ、蘇芳と紅袮が馨に蘇生術を施す。
その光景を奏は呆然とその場に立ち尽くし見つめていた。
「……」
「自ら七海の前に立ち塞がったのだから、ああなるのも仕方のないことだ。どうした、七海?今が好機だ、もう一度さっきのをお見舞いしてやれ」
鶲は先程と同じように奏の耳元でそっと囁き命じた。しかし、奏は目を見開いたまま、その場から動こうとしない。
「……七海?」
不審に思った鶲が再び声をかけると、奏はするりと鶲の腕からすり抜けていく。
「なっ……!」
「っ馨!!!」
奏が叫びながら向かったのは、倒れている馨の元だった。今まで誰もが見たことがないほどの泣きじゃくった顔で必死に馨の名を叫び続けている。
「馨!馨!!ごめん、俺の……俺のせいで、こんな……!!」
「七海……いや、奏か!?戻ったのか……!」
シリウスは驚愕した。あれほどまで強く七海に意識を侵食されていた奏が、七海の心を押しやって戻ってきたというのだ。最早七海の心を壊さなければ、奏を取り戻すことは不可能だと思っていたのである。
しかし、今こうして奏は馨の手を取り、馨の為に涙をこぼしている。
「はは……奏だ……よかった、ちゃんと……かなで、だ……」
「馨……馨……死なないで、馨……」
「……俺は、だい、じょうぶ、だから……泣くなよ……お前の泣き顔……見てると、つらい……」
そう呟いて、馨は血で濡れた手で奏の頬に伝う涙をそっと拭ってやる。それから力尽きたかのように、馨の手は奏の手から滑り落ちていった。
「っだめです、傷が深すぎて……これ以上はもう、禁術の蘇生術でないと……!」
懸命に蘇生術をかけ続けていた蘇芳が叫んだ。馨の傷は致命傷であり、更に「全てを拒絶する力」となった織女星の力をまともに受けた影響で馨の体──つまり星の精の器を維持していた呪力が霧散してしまい、通常の蘇生術では最早傷を塞ぐのが間に合わないのだという。
禁術の蘇生術はアルタイルの意思の力から成るもので絶対の蘇生力を誇るが、代わりに術者が命を落とすというものであり、天帝からの特例が出ない限りデメリット無しで使うことはできない。
隣で蘇芳と共に蘇生術をかけ続けていた紅袮も、涙ぐみながら首を横に振った。
「馨……俺の力でも……ごめん……」
「そんな……」
星が言葉を失った。クレスも、響も、その場にいる誰もがもう、何も言うことができなかった。
ただ、静かになった空間の中で奏の泣きじゃくる声が響くのみ。
「……馨……馨……」
すると、クレスは奏の周囲に異変が起きていることに気付く。
「!これは……」
奏の周囲がほのかに青く光り、強い水の力が集っているようだ。その力は少しずつ更に強さを増していき、奏が翳した手の中に集まる。ついには、この空間全体がまるで神に見守られているような神聖で清浄な空気になったのを皆が感じた。
「癒やしの力を司る水の精霊達よ……俺に力を貸して……俺の力じゃ、だめなんだ……」
奏が翳した手の中のエネルギーが青く眩い光を放つ。そのまばゆさに皆が思わず目を閉じてしまったが、次にその目を開いた瞬間、先程の強い光は跡形もなく消え去っていた。そこには馨に覆いかぶさるようにして眠ってしまっている奏と、気を失っている馨だけが残されている。
「ま、待ってください……!馨君の傷が治ってる……!」
蘇芳が確認すると、あれだけ重傷を負っていた馨の体は、まるで何もなかったかのように綺麗になくなっていた。傷を塞いだ、というレベルではなく、傷が完全になくなっているのである。
「これは……五行の水の力だ。織女星の五行の力とは、五行それぞれの力を司る精霊の力を借りて、自分が持っている呪力と重ね合わせて使うんだ。今の……相当強い水の力だった。織女星の力が目覚めたことで、より強い精霊を召喚することができるようになったんだと思う」
蘇芳と並んで様子を確認した悠は、安堵したように話した。馨の傷は、奏の声に呼ばれた水の精霊が完治させてしまったのだという。
すると、気を失っていた馨がゆっくりと瞼を開いた。自分の胸の上で奏が眠っていることに驚いて声を上げるが、すぐに先程までと体の様子が違うことに気付いたようである。
「あ、あれ?もう痛くないぞ……?」
不思議そうにぺたぺたと両手で体全体を触っていると、突然凪が感極まったかのように抱きついてきた。
「うわ!?」
「全く貴方って子は!!!無茶ばっかりして!!!」
「ご、ごめん凪……あの、さっきの傷、もしかして奏が……?」
気を失ってはいたが、あの時奏の力が自分の中に入り込んでくるのを馨は感じていた。とても優しくて心地よい、いつもの奏の力だった。
馨の言葉に響は頷いて返すと、眠り続けている奏の頭を優しく撫でてやりながら
「君を助けたらそのまま眠ってしまったようだね。力をたくさん使いすぎて疲れてしまったんじゃないかな」
と話す。確かに、七海に体を奪われている時に使っていた強大な力と、先程馨の傷を治すために使った強い力……膨大な量の呪力を消費したのは言うまでもない。
そうまでして自分を助けてくれた奏を馨はとても愛おしく思い、眠る奏の頭を優しく撫でた。
「奏……ありがとう」
そんな一同のやり取りを、遠巻きから呆然と眺める人影があった。
鶲である。彼は、何故奏が七海から自分の体を取り返し、馨の元に走り去っていったのか全く状況を理解できずにいた。
「何故……なんてことだ……俺の、俺の七海が……!」
ようやく絞り出した鶲の声を聞いた悠は、鶲に向かって冷たい声色で言う。
「鶲。貴方の計画は全て潰えた。もう諦めて、牽牛星としての力を馨に渡して」
「鶫……お前まで、そんなことを言うのか……」
かつて自分のことを一番に考え、一番に支えてくれた彼が、その生まれ変わりとはいえ完全に自分の手から離れていってしまったことを理解し、鶲はショックを受けたように弱々しく呟いた。
悠は静かに首を横に振ると
「……俺はもう鶫じゃない。鶫の記憶を持ってはいるけど……鶫はとうの昔に消えたんだ。そしてまた、鶲と七海の、あのような悲劇を繰り返させないために、俺は悠として……仮初の織女星として生まれた。過去にいつまでもしがみついているのは、鶲……もう貴方だけだよ」
と続けて返す。
鶲は項垂れ、その場に膝をついた。もう自分の味方と呼べるものは、誰一人としていなくなってしまったのだ。
だがそれでも、鶲の中に燻っている復讐の炎はまだ消えることはなかった。
「俺は……俺はただ、七海ともう一度、あの頃のように幸せに過ごしたかっただけなんだ。でも……!それを奴が!天帝が!全て俺達から奪い取ってしまった……!奴だけは絶対に許さない……決して許すことはできないんだ!!」
鶲がそう叫んだ瞬間、鶲の体から溢れた強い力の衝撃を受け、悠は吹き飛ばされてしまう。
「う、わ……っ!」
「悠!危ない!」
「っあ、楸……ありがとう」
吹き飛ばされた悠は楸に受け止められた。自分の腕の中にすっぽりと収まった悠を見て楸は安堵したように息をついてから、錯乱しかけている鶲を見やる。
鶲はどうやら、己の牽牛星としての力──全てを「無に蘇らせる」という真の蘇生術を使うつもりでいるらしい。蘇芳が紅袮と力を合わせて使う真の蘇生術とは規模の違う、時の力に抵触する禁術レベルの強い呪術。かつての敵、ブレウスが紅袮を使って意のままに操ろうとしていた力そのものである。
「いけません!この力は……このままにすればベガだけでなく、この銀河ごと無にされてしまう規模のもの!なんとしてでも止めなくては……!」
蘇芳は自分の力を使いなんとか相殺を試みようとしたが、先程馨の治療のために魔力の大半を使ってしまったためにもうそこまでできるほどの与力は残っておらず、その場に倒れ込んでしまった。慌てて凪が蘇芳を抱き起こす。
「蘇芳は休んでいなさい。ここは私達で食い止めます」
「で、でも……」
凪も、先程の七海の攻撃を食い止めるために既にかなりの魔力を消耗しているはずだ。
いくらシリウス達と力を合わせたところで、これほどまでに大規模な力を相殺することが出来る力は、最早彼らには残されていないだろう。
すると、悠が静かに、眠っている奏に近づいた。
「な、何するつもりや悠!」
「奏から織女星の力を受け取る。俺の呪力はまだ十分に残ってるし、今ここで鶲を止めることができるのは覚醒した五行術以外にないと思うから」
悠が奏の胸に手を翳そうとすると、楸がすぐにその手を掴んだ。
「……楸?」
不思議そうな顔で悠が楸を見上げると、楸は今にも泣きそうな顔で悠を見つめている。
「なあ、悠……俺、やっぱお前が奏の代わりに封印されるんは嫌や。考え直してくれへん?」
楸は懇願するように悠に言う。しかし悠はすぐに首を横に振り、自分の手を掴む楸の手を払った。
「……楸のその気持ちは嬉しいけど……でも、俺が奏の双子として生まれたのは、その役割を果たすためだと思っているから」
「悠……」
楸を見つめてそう話す悠の瞳には確かな覚悟が宿っていて、楸はこれ以上何も言うことができなくなってしまった。
悠はきっと、鶫として生きていた時からこうすることを願っていたのだろう。そして双子の、仮初の織女星として生を受けた。ここで悠を止めてしまえば、きっと悠のこれまでの決意と覚悟を全て無下にすることになってしまう。
どうあっても悠を止めることはできないのかと楸は顔を歪ませ、ただ口を噤むしかできなかった。
その時、静かに皆の前へ出る者がいた。
「!馨!?危険だ、君の敵う相手ではない!!」
悠が叫ぶが、覚醒しかけているアルタイルの意思の力…その衝撃を受けながらも怯むことなく、馨が真っ直ぐに鶲を見つめていた。そして悠に、静かに何かを語りかける。
「……俺さ、楸に頼まれてたんだ。お前も奏も、二人とも救われる道を作ってやってくれないかって。俺はまだ牽牛星の力を持たない、ちっぽけなただの流星だけど……でもさ、あいつは俺だから」
「……楸、馨にそんなことを……?」
悠が驚いたように楸を見れば、楸は真っ赤になった顔を両手で覆い隠し、悠から顔を背け
「内緒にしといて言うたやんか馨~……」
と蚊の鳴くような声で呟いていた。
馨は「そうだったっけ?」と悪びれもなく笑うと、再び真剣な表情で鶲を見つめた。
「鶲も七海も、二人が悲劇に飲まれてしまったのはきっと、一人ぼっちだったからだと思うんだ。だからお互いに依存しすぎてしまった。俺も、もし周りに杏とか、紅袮とか、星とか……凪や、悠……みんながいなかったら、きっと同じ運命を辿っていたと思う」
鶲から放たれる力から、鶲の気持ちが馨に伝わってくる。
彼は飢えていたのだ。愛情に。幸せに。それを鶲に教えてくれたのは唯一、七海だけだった。
七海も同じだった。あの二人にとって、自分の世界には互いしか存在していなかったのだ。
「だから……俺のけじめは俺自身でつける!奏も悠も、皆を幸せにするんだ!」
「馨!!」
鶲に向かって走り出した馨をクレスは呼び止めたが、凪がそれを静かに制止した。
「見届けましょう、クレス。あの子に、本当に牽牛星としての資格があるのかを……」

鶲の周囲は、強い呪力のエネルギーが渦巻いていた。普通であればおそらくすぐに吹き飛ばされてしまいそうな程の衝撃だが、馨はその力の影響をほとんど受けていなかった。この体が、実は牽牛星としての体だからだろうか、と馨は思っていた。
やがてエネルギーの中心に蹲る鶲の姿を確認する。その鶲の姿に向かって、馨は張り裂けんばかりの大声で呼びかけた。
「鶲!もうやめろ!!天帝様は七海のじーちゃんなんだ、お前が天帝様を憎んで復讐したとして、それで七海が喜ぶと思ってるのか!?悲しむに決まってるだろ……!」
エネルギーの風の音に負けないように叫んだ馨の声は、鶲の耳にちゃんと届いていた。そして少し遅れて、泣き叫ぶような声が馨のもとに返ってくる。
「お前に何がわかる!あいつに全てを奪われた、俺の気持ちを……七海の気持ちを……!」
「そんなのわかんねーよ!俺はお前で、お前は俺だけど……心は別々なんだから。だけどさ、俺は周りに仲間がたくさんいた。だから奏のこと好きだけど、俺の世界は奏だけじゃなかったんだ。……お前は一人だったろ。だから七海に縋るしかなかった。お前の世界は、七海だけだったんだろ」
「煩い!ああそうさ、俺は孤独だった。たった一人でアルタイルの国を治め、どんな時だって何もかも一人で解決しなければならなかった。そんな疲れ切った俺の心を癒やしてくれたのが七海だったんだ……。七海も同じ立場だった。心を持たず、誰とも関わりを持ってはいけないと定められ、一生孤独でいなければならなかった。だから……そうだ、そんな運命の中で、七海は俺と出逢ってしまった。お互いに孤独だったから、俺達は惹かれ合ってしまったんだ!どうして……こうなってしまうなら、いっそ出逢わなければ七海も幸せだったかもしれないのに……」
それは、鶲が今までずっと一人で隠し続けていた本音であった。
星の主であったが故の孤独。その孤独と戦い続けた末に、それを分かち合える最愛の人と出逢うことができた喜び。
それなのに何故、二人は引き裂かれなくてはならなかったのか。最初からこうなる運命だと知っていれば、彼女を愛することを諦めることだってできたかもしれなかったのに。七海の心が芽生える前に、身を引くことだってできたはず。その方が彼女にとってもきっと幸せだっただろう。
そんな鶲の悲痛な叫び声は、己の本音と後悔を次々と吐露していく。
馨は言葉に詰まってしまった。鶲の言葉に対して、そんなことはない、と言ってやりたかった。だが自分は当時のことを何も知らない。七海のことだって、ただひたすらに涙を流していた姿しか知らない。彼女の本当の気持ちもわからない。その上で何を言ったところで、鶲の心には何も響かないのだと気付いた。
「く……っあ、あれ……?」
鶲の凄まじいエネルギーの風が馨に襲いかかり、馨は思わず吹き飛ばされそうになる。が、その衝撃はすぐに消え去り、馨は自分の前に誰かの気配を感じて目を開いた。そして目の前に、自分を庇うようにして立っている人物を見て驚愕する。
「鶲、それは違う」
「天帝様……!?」
鶲を前に堂々と話すその人物は、天帝だった。
彼の姿を遠巻きから確認したクレス達も、思わず声を上げてしまう。
「貴様……よくものうのうと俺の前に姿を現せたな……!」
突如目の前に現れた天帝を前に、鶲が怒りを露わにしたのがすぐにわかった。更に強くなったアルタイルの力のエネルギーを受け、いよいよこの空間も限界なのか周囲に綻びが生じかけている。
しかし天帝はそれにも構わず、いつもの堂々とした態度でゆっくりと話し始めた。
「まあ、話を聞いてくれ。我の声など聞きたくはないだろうが……せめて、これだけは伝えなくてはと思ってな。……七海はな、お前と出逢ってから心底幸せそうであったよ」
「……」
途端、鶲の力が止んだ。天帝のその言葉を聞いた鶲は驚愕したように、そして呆然と目を見開いて天帝を見つめている。
「本来であれば、七海がお前と出逢ってしまった時点で二人に注意を促すべきだった。それこそ、もう二度と逢うことができないように引き離す必要があった。だが、できなかったのだ……今まで心を持たなかった孫娘の、あのように幸せそうにお前のことを話す顔を見てしまってはな」
鶲のことを話す時、七海はいつも笑っていた。七海に心が芽生えてしまったという危機感を感じながらも、永遠に見ることは叶わないと思っていた七海の幸せそうな姿は、天帝の判断を鈍らせてしまったのだ。
五行術の為に心を開いてはいけないという掟を守らせてはいたが、天帝も自分の心の奥底では、七海に幸せになってほしいと願い続けていたのだ。
「我とて心が鬼なわけではない。だが……そこで止めることができなかった故、あのような悲劇を招いてしまった。それは、申し訳なかったと思っている。全ては我の責任だ。……何度も、何度も、何故我が愛しい孫娘にあのように素晴らしくも、だが忌まわしい力が永遠にまとわりつくのか、と考え憎んだ時もあった。奏が生まれた時もな」
五行術は織女星が必ず生まれ持つ力である。ベガの星の力の源を支えていくために必要不可欠なのが五行の力だということは天帝も理解してはいたが、織女星が生まれ持つ五行術は何一つ混じりっ気のない、純粋な五行術であった。純粋すぎるが故に織女星を幸せにもし、不幸にもする。
奏が生まれる時も次こそは幸せになれるようにと祈ったのだが、やはり織女星の力はそれを許してはくれなかった。
天帝は奏にこれから待ち受けるであろう運命を嘆いた。
「……でも奏は、その力のことを良い力だって言ってた。皆を助けてくれる、優しい力だって」
天帝の話を今まで静かに聞いていた馨が、ふと呟いた。それを聞いた天帝と鶲が馨の方を見ると、馨は何かを思いついたように「あ」と声を上げた後、すぐに満面の笑顔になった。
「そうだ!だから今度はずっと、奏の力を優しい力のままにするために俺達が助けてやれば良いんだ!勿論、鶲もさ!」
「お、俺も……だと……?」
馨の突然の提案に、鶲は訝しげな顔で答えた。
「鶲の力が俺の中に入れば、奏や悠みたいに、自分の中に過去の自分がいる、みたいな感じになるんだろ?」
馨がそう悠に問うと、悠は少し考えてから
「……過去の記憶が新たな自分の中に残る。奏は……天帝様の力でブロックされていたみたいだけど、さっき奏の心が押しやられて七海が出てきたように……織女星と牽牛星は死ぬことがない。記憶ごと新たな器に生まれ変わるから、馨が言っていることはまあ、間違ってはいない」
と答えた。
すると馨はますます笑顔になって、鶲に嬉しそうに告げるのだ。
「な?つまりは奏は七海で、七海は奏ってことだ!俺と一緒に……いや、皆と一緒に、奏を幸せにしてやろうぜ!お前はもうひとりじゃないんだ、ひとりで頑張らなくてもいいんだ!」
そして馨は鶲に近付くと、彼に向かって手を差し伸べた。
馨の話を呆然と聞いていた鶲であったが、暫くそうしていた後突然顔を伏せたかと思いきや、彼は肩を震わせて笑い始めた。
「……はは、俺の転生後が、こんなにもお気楽なやつだったとはな……」
馨が提案したことは簡単そうであって、しかしなかなかに難しいことである。それなのに、馨は自信に満ち溢れた表情で堂々と語るものだから、本当に七海を──奏を幸せにすることができてしまいそうで、なんだか体から力が抜けてしまった。
しかし、鶲にそんなことを言われた馨は一瞬きょとんとした後すぐに口をとがらせ
「な、なんだよ。俺だって色々悩んだことくらいあるんだぞ!奏と契約を結ぶつもりで間違った時とか、奏に酷いこと言っちゃった時とか、奏と悠に挟まれて眠れなかったりした時とか……」
と指を折って数えながら、自分が今まで抱えてきた悩みを思い出しているようである。
その姿さえ面白くて、鶲はとうとう腹を抱えて笑い出した。
「……ふふ……ははは!」
「な、わ、笑うなってば~!」
笑い続ける鶲に馨は怒りを露わにするが、やがて馨もつられるように笑いだしてしまう。
ひとしきり笑いあった後、鶲は大きく息をついて天を仰いだ。
「もういいや。そうだな、過去にいつまでもしがみついているのは俺だけだった。七海も、鶫も……それぞれ新たな自分に生まれ変わって、新たな人生を歩もうとしている。……ん?そう考えると、悠の生きる目的というのは少し、褒められたものじゃあないな」
「え、だ、だって、こうするしかないと思っていたから……」
窘められるように鶲に言われ、悠は罰の悪そうな顔で呟く。
鶲はそんな悠の元まで来ると、優しく彼の頭を撫でた。
「俺達のことを案じてくれてのことだろ。その気持ちだけで十分だ。あとは……俺が馨と、皆と共に、奏を守っていくことにするさ。お前も手伝ってくれるか?」
「うん……うん、勿論……鶲様!」
そう言って悠が笑う。きっとこの笑顔は、今まで鶲ですら見たことのなかった笑顔なのだろう。鶲は少し驚いたような顔をしていたが、すぐに目を細めて一緒に笑顔になる。
「久しぶりに鶫の声で、そう呼ばれたな……ありがとう、悠。よし、それじゃあ、馨」
もう一度悠の頭を優しく撫でてから、鶲は馨の名を呼んだ。
「お、おう!」
彼のその晴れ晴れとした声色から、次に何が起きるのか馨はすぐに察する。
いよいよ、自分が牽牛星となる時が来たのだ。
馨は緊張した面持ちで鶲の前に立つと「そう緊張するな」と鶲に笑われてしまった。そしてすぐに目を閉じるように言われ、馨はゆっくりと目を閉じる。
「馨に、牽牛星の権能と、力を」
鶲が馨の胸に自らの手を当てそう呟くと、鶲は瞬く間に無数の光の粒となって馨の中へ入っていく。そして一瞬、馨の体全体が光りに包まれた後、馨は呻き声を上げてよろめいた。
近くにいた悠がそんな馨の体を支え、心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?馨」
「ああ、大丈夫……ちょっと一瞬記憶が混合してふらついちまったけど……へへ、これからよろしくな、鶲」
自分の胸の内に宿った、今まではなかった暖かいもの。自分の記憶の一部となった鶲に、馨は改めて笑顔で声をかけた。
次の瞬間、馨はものすごい勢いで誰かに抱きしめられる。
「馨!!」
「ぐえっ!?」
抱きしめてきたのは凪であった。これでもかというくらい嬉しそうに馨に頬ずりをし、凪は力いっぱい馨を抱きしめる。
「貴方ならやれると信じていましたよ!!これで貴方は立派な牽牛星……アルタイルの新たな星の精の顕現です!」
「な、凪……ぐるじい…」
「おい凪、お前馬鹿力なんだからもうやめてやれ」
窒息しかけている馨から凪を離し、クレスは苦笑しつつも
「おめでとう、馨。ひとまずはこれで一件落着、といったところか」
と嬉しそうに周りを見回した。
「これで悠も、奏も封印されることはないんやな……あれ、なんか目から汁が……」
「楸はまずデネブに戻るように。君がやったことはさっきも言ったけど黒に近いグレーだ。査問会が待ってるから覚悟しててね」
「響ぃ~~~~あれはどうしようもなかったんやって、見逃してえや~~~~~」
傍らでは半べそをかきながら響に懇願する楸と、それを見て笑っている蘇芳達。
全てが丸く収まった……はずであった。
「あ!そういえば奏は大丈夫か!?」
ふと、自分を助けて眠ってしまっていた奏のことを思い出し、馨は声を上げた。
奏のことは星と紅袮が見ていてくれていたらしい。いまだその場に横たわって眠り続けている奏の元に馨は駆け寄った。しかし、こちらに来た馨に星達が見せた表情は、どことなく焦っているような暗い表情だった。
「七海の気配ももうないし眠ったままなんだけど、なんかちっと様子がおかしいんだ」
「え?」
星に言われ、どうしたのかと馨は首を傾げて奏の顔を覗き込む。その寝顔には特に変わった様子は感じられない。
「起こしてもなかなか起きないのはいつものことなんだけど、なんだかとても深く眠っているみたいで……いつもの変な寝息も立ててないし……」
紅袮も、様子のおかしい奏を心配そうに見つめながらそう話す。
それに気付いた蘇芳がこちらへ駆け寄ってくると、すぐに奏の様子を確認した。奏の体に手を翳し、目を閉じて異常を探っているようだが、ふと何かに気付いて目を見開いた。
「……!これは……おそらく、何かのショックで体を放棄し、心を閉ざしてしまっている状態のようです」
「何かのショックって、もしかしてあの時の……」
「馨君に怪我を負わせてしまった時……その可能性が高いです」
杏の言葉に、蘇芳は頷いて答える。直近で起きた出来事を思い返せば、原因はほぼそれ以外で考えられないだろう。
「え!?でも俺全然気にしてないぞ!っていうかあれは俺の自業自得なとこあるし、奏は七海に乗っ取られてたんだからしょうがないし、奏はなんも悪くないだろ!」
二人の話を聞いて馨は慌てた様子で話すが、クレスは神妙な面持ちで答えた。
「自分が馨を傷つけてしまった、ということに責任を感じて閉じこもってしまったのかもしれない。馨が初めてベガに来た時にも話しただろう、奏は人から嫌われることを極端に恐れる子だと。何も考えていないように見えて心が非常に繊細なんだ」
「え、そ、それじゃあ奏はどうなるんだ……?このまま目を覚まさないのかよ……!?」
馨の必死の問いに、一同は何も答えることができなかった。蘇芳も首を横に振り「わかりません」と一言呟く。しかし少しの沈黙の後
「ですが、何らかの方法で奏君の閉ざされた心と接触し、こちらに引っ張り出せれば、あるいは……」
と続けて呟いた。
しかし、口で言うだけなら簡単ではあるが、その方法を実際に行動に移すとなると難しい。心──精神のみを奏の精神世界に潜り込ませ、奏の心を探さなければならない。見つからなければ、そして失敗すれば、奏だけではなく奏の心を探しに行った者も戻ってこられなくなってしまう。
とはいってもこのまま奏を放っておくわけにもいかない。これでは食事をすることもできず、体はいずれ衰弱し、心ごと消失してしまうだろう。
蘇芳がなんとか最良の策を考えていると、ふと、凪が思いついたように呟いた。
「……契約の力……」
「え……?」
その言葉に馨が首を傾げると、天帝は「ああ、成程」と閃いたように呟いた。
「番の契約か。ベガとアルタイルで催される祭りの契約とは少し異なるが、星の精の世界でも似たような契約術が存在する」
天帝の話によると、ベガとアルタイルの妖精同士が交わすことの出来る番の契約とは互いの縁を強く結びつけるものである。一年の間の一時的な契約であるから、期限が来れば縁を結びつけていた糸は自然に解けてしまうという実はとても簡素な魔術なのだ。
一方、星の精が交わすことが出来る番の契約は意思と心を結びつけるもの。その契約期間は妖精界のものとは異なり、生涯添い遂げることを約束し、銀河に新たな星を創る権利を得、二人で支え合いながら銀河の統括者を助けるためのもの。ヒトの世で言う婚姻と同義なのだという。
「織女星と牽牛星は何の因果か、皮肉にも自然と契約が交わされるようになってしまっている。織女星の心が目覚めなければ未契約のままなのだが……」
「てことは、もう紅袮と馨の誤契約は解消されていて、今馨は奏と自然に星の精としての番の契約を結んじまってるってことか!」
天帝の話を聞いた星の声が明るくなる。天帝は頷くと、更に話を続けた。
「牽牛星となった今のお前であれば、既に織女星である奏と意思と心が強く結ばれている……奏の心と接触を図ることが可能なはずだ。さあ、馨。お前のやるべきことはもうわかるな?」
「……俺が、奏を……」
馨は固く目を閉じる。自分の胸の中で、今までは感じなかった温かい何かの力がざわめいているのに気付いた。最初は鶲の記憶のせいなのかと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。もしかするとこれが、天帝の話していた星の精の契約の力なのだろうか。
すると、馨は背後から軽く肩を叩かれた。すぐに振り向くと、そこには真剣な表情で馨を見つめる凪が立っている。
「やれますか?……というよりは、貴方にしかできないことです」
凪の言葉に、馨は再び目を閉じる。そしてもう一度目を開き、覚悟を決めたように大きく頷いた。
「やる。やってみせる。絶対に……奏を連れて帰ってくる!」
そう告げた馨を見て、凪は普段の優しい微笑みを浮かべると馨の頭を優しく撫でた。
「馨、本当に立派になりましたね……では、眠り姫を助けに……やってもらいましょう」
馨はいまだに静かな寝息を立てて眠っている奏の横に腰を下ろした。
奏の精神世界の中に潜り込む方法を知らない馨ではあったが、自分の中の鶲がやり方を教えてくれているような気がして、馨は自然と奏の手を両手で握り、強く祈りを込めていた。
(奏……奏が俺を助けてくれたように、今度は俺が、今できる精一杯のことを、奏に……!)

気が付くと、馨は暗闇の中を一人漂っていた。
「ここは……奏の精神世界の中、なのか……?真っ暗だ、何も見えない……」
辺りを見回すが、光も何もない。この空間がどれだけの広さなのかもわからない。まるで、星が一つもない宇宙に放り出されているようである。
「奏!奏ー!どこにいるんだー!」
ひとまず馨は、奏の名を呼びながらその場から移動する。体はふわふわするし地面もないので、歩くように体を動かしても本当に移動できているのかわからなかった。それでもとにかく、奏を見つけて連れて帰るという一心で馨は手足をもがくように動かし続けた。
どれくらいの時をそうしていただろう。やがて、暗闇の中、遠く離れた場所に微かな光が見えた。
「ん……?なんだ、あの光は」
とりあえず元いた場所から移動できていたことがわかり、馨はほっとする、そしてたった一つの手がかりであるその光目指して進み続けた。少しずつ、少しずつ近くなり輝きを増していくその光は、馨がずっと探し求めていた光だということに気付く。
「奏!お前こんなところにいたのか!」
奏はかつての七海のように体を丸め、泣いていた。馨の声に気付くとゆっくりと目を開いて馨を見、小さく呟く。
「……馨……」
「奏、ほら、泣いてないで戻ってこいよ。皆心配してるぜ」
馨が奏の手を取りその場から連れ出そうとするが、奏は首を横に振りその手を振りほどいてしまう。
「だめだ!俺は馨を傷つけてしまったから……俺の力は、もう誰かを傷つけることしかできない……もう皆と一緒にいられない……俺はやっぱり、ずっとあの家から出ちゃいけなかったんだ……」
やはり、奏は馨を傷つけてしまったことでこの場所に閉じこもってしまっていた。
不安定な奏の心と、覚醒してしまった織女星の力。七海がその力を行使していたとはいえ、奏ははっきりと、その力が馨や他の皆に襲いかかるところを見ていたのだ。皆に嫌われてしまうのを恐れる奏が、こうして閉じこもってしまうのも無理はないだろう。
それでも馨は諦めなかった。必ず、奏を連れて帰ると皆と約束したのだから。
「何言ってんだ!!」
再び奏の手を握り、馨は声を荒げた。すると奏は、馨にこんな風に叱られるなんて初めてだ、とでも言いたげに少し驚いた顔でこちらを見る。
「お前が家から……あの森から出てこなかったら、紅袮や星と友達になることだってできなかったし……何より、俺達が会うことだってできなかったんだぞ!俺はそんなの嫌だ!」
「馨……」
いつの間にか、奏の瞳から溢れていた涙は止まっていた。
「俺は、さ……星や、紅袮と比べて、お前と一緒にいられた時間っていうのがたったの半年って、短いだろ。お前のこと、この半年で結構知ることができたって思ってたんだけど……でも、全然だった」
半年間共同生活をして、馨はたくさんの奏を見てきた。料理と掃除はできるが他のことに関してはとにかく不器用なこと。何かを考え込んでいる最中に寝てしまうこと。他人にさほど興味は示さないが、動植物の異変にはいち早く気付いて優しく治療をしてあげていること。
他にもまだまだたくさん、今まで知らなかった奏の姿をたくさん見てきたのだ。それでも、奏の心がこれ程までに繊細だということには気付かなかったし、こうして仲間を傷つけてしまうのを恐れて引きこもってしまうくらい仲間思いだったということも知らなかった。
「だから、俺、これからももっと奏のことを知りたいんだ。もっともっと、奏と一緒にいて奏のことをたくさん知って……今まで以上に奏のことを好きになりたい!だから……一緒に戻ろう!」
「だけど……戻っても、もう俺の力は……」
奏の表情が再び曇る。奏の優しかった五行術は、奏の心の影響で変質してしまった。七海の記憶を見て、変質してしまったこの力を元に戻すのは天帝でさえも困難であることも知ってしまった。
もう、自分はこの深い心の片隅で嘆き続けるしかないのだ、と奏は思っていた。
しかし、そんな奏の手を握る馨の手に、更に力がこもる。馨を見れば、彼は真剣な眼差しで奏を見つめていた。
「大丈夫だ。皆と約束したんだ。奏が……奏の力が、ずっと優しい力のままでいられるように。紅袮や、星や、悠……それから鶲も。皆で、奏を幸せにするって」
「……皆が……」
「勿論俺だって奏を幸せにする。俺が一番奏を幸せにするんだ!なんてったって奏のことを一番好きなのは俺だからな!だから……なあ、奏は、本当はどうしたいんだ……?」
「……俺、は……」
馨の問いに答えるように奏が小さく呟いた瞬間、突然、二人は眩い光に包まれた。
驚いた馨はあまりの眩さに思わず目を細めてしまうが、その光は五色に分かれ、次々と奏の胸の中へ、まるで吸い込まれるように戻っていくのが見えた。そしてとうとう、二人は目も開けられないほどの眩さに包まれる。馨は思わず奏を抱きしめた。

「──……」
次に二人が目を開けた時、そこは今までいた真っ暗な空間の中ではなかった。周りを見回せば、心配そうに二人を見つめている仲間達の姿がある。
「奏……!」
「奏!馨も、目が覚めたんだな……!」
どうやら二人は、奏の精神世界の中から元いたベガの神殿へ戻ってくることができたようだ。
今にも泣きそうな顔で駆け寄ってきた紅袮と、嬉しそうなクレスにもみくちゃにされた奏は何だか少し嬉しそうな顔で微笑みながら「ごめんね」などと謝罪をしている。
そしてすぐ隣にいる馨に気付くと、少し何か考えるようにうつむいた後、馨の目をしっかりと見つめて言ったのだ。
「あっ、あのね、馨……俺も……俺も皆や、馨とずっと一緒にいたいんだ……!」
あの時の問いの、奏の答え。それは奏が、七海が今までずっと心の奥底で願い続けていたものだったのだろう。
馨はその答えを聞くと嬉しそうに笑い、大きく頷いた。