ちぇんじRevolution #5

第五章【覚醒】

時刻は昼になろうとしていた。
アルタイルの街で遊んでいた杏、紅袮、星は街の中心にある広場で休憩をしていた。
「んん~っ!久しぶりの故郷だからずいぶんとはしゃいじゃったわね」
たくさんの買い物袋をベンチに置き、杏は軽く伸びをする。
「俺、アルタイルは初めてだからすごく楽しかったよ」
その横で先程買ったカラフルなアイスを食べながら、紅袮も満足そうに笑った。このアイスは杏が勧めたものだが、星もどうやらお気に召したようで二人共夢中になって食べている。
「ふふ、楽しんでもらえたならよかったわ」
そんな二人の笑顔を眺めながら、杏も目を細めて微笑んだ。
ふと、星が辺りを見回し
「あれ、馨達は?」
と、先程まで一緒にいた三人の姿が見えないことに気付く。
「まだどこかの店にいるんじゃないかな。そろそろ凪兄様達も帰ってくるだろうし、呼んでこようか」
紅袮は、馨が張り切って様々な店に奏と悠を引っ張っていくところを何度も見ていた。おそらくここに来るまでに馨がいつの間にか、また別の店を見つけ二人を連れて行ってしまったのだろう。
「全く、張り切るのは結構だけど程々にしてほしいものだわ」
杏も呆れながら三人の捜索に乗り出すのだった。

その頃、馨達の三人は広場とは少し離れた商店街にいた。
奏と悠は馨に引っ張られ、ここまで連れてこられたのだ。
何やら馨の好きなお菓子が近くの店で売っているらしく、是非二人に食べてもらいたいということでそれを買いに行ってしまい、奏と悠の二人は丁度良い高さの花壇の縁に腰掛け、馨の帰りを待っていた。
「……ふう」
「……疲れたの?」
会話もなく沈黙が続いていた二人だったが、深く息をついた奏に悠が少し遅れて声をかける。
「少しだけ。アルタイルにあるもの、ベガにはないものばかりで……とても楽しかったから」
馨が案内してくれた店には、奏が初めて見るものばかりが並んでいた。
本屋にも連れていってもらったが、自宅の父の書斎では見たことのない童話や物語のタイトルがたくさん並んでいたし、興味を惹かれて何冊か購入してしまった。
ベガは泉と花で溢れた幻想的な国なのに対し、アルタイルは最初に皆が言っていたように、まるで地球にあるような草木が育ち、山があり、海のような場所もある。同じ妖精国でもここまで違うものなのかと、奏には目に映るもの全てが驚きでしかなかった。
「奏は、この世界が好き?」
嬉しそうに語った奏に、悠は更に問いかけた。
悠のその問いは、今まであの家にずっと引きこもっていた自分では答えられないだろうと奏は思った。
今まではあの森の中が自分の知っている世界だった。だが、紅袮や馨達にあの家から引っ張り出され、自分が今まで見ていた世界はとてもちっぽけなものだったということに気付かされた。
世界とはこんなにも広くて、そして素晴らしいものがたくさん存在しているのだ。
「うん」
アルタイルの星空を眺めながら、奏は頷いた。
たった一言だが、これが世界というものを知った、奏の心からの答えだった。
「そう……」
悠は僅かに笑みを浮かべてそう呟くと、奏に倣うようにして空を見上げた。
見上げた空には天の川がかかり、その向こうにベガが輝いているのが見える。奏と、自分が暮らし守っていたあの星だ。
暫く何も言葉を交わすことなく星空を眺めていると、ふと、奏が静寂を破るかのようにぽつりと呟いた。
「俺……馨や、皆に会えてよかった。今とても……幸せなんだ」
「……」
悠は何も答えなかったが、すぐに異変に気付いた。
今まで自分の気持ちを語る時、必ず曖昧な言い方をして自分の本当の感情を誤魔化すようにしていた奏が、はっきりと今の自分の気持ちが「楽しい」「幸せ」であると語ったのだ。
(──いけない……!!)
悠の頭の中で警告音が鳴り響く。このままでは、奏は──
「やっぱり、奏はせっかく手に入れた自由な心を手放してはだめだ」
「……どういうこと?」
気が付くと、悠は奏の真正面に立ちはだかるようにして奏を見つめていた。
「幸せ」だと感じている今はまだいい。だが奏が今まで育てられてきた境遇等を考えれば、その「幸せ」を失った時の反動は想像に難くない。
例えるなら、今まで甘いお菓子の味を知らなかった子供が初めてお菓子を与えられてその味を知り、覚える。
ところが毎日与えられていたそのお菓子をある日突然貰えなくなる。子供は勿論それを悲しく思うだろう。
「幸せ」の味は一度覚えてしまえば、それを取り上げた時に戻るのはそれを知らなかった時の「無」ではない。
幸せだったという記憶は「寂しい」「悲しい」等という新たな感情を生み出す。
織女星の──あの精霊もそうだったのだ。心を持たない、「無」の状態で生まれた彼女は、鶲との出逢いで心が芽生え幸せという感情を知った。知ってしまった。
その後のことを思い出して、悠は堅く目を閉じた。
「この世界や、馨のことが大切だと思うなら尚更……奏のその力は、幸せだと思う力の弊害になってしまう。だから、早く俺に……!」
悠は再び奏に説得を試みるが、奏は何がなんだかわからない、といったような顔で悠を見つめている。
「どうして……どうしてそんなことを言うの。この力はたくさんの生き物達を助けてくれるいい力なのに……俺はこの力があったから、杏のことも助けられて仲良くなれたし、今の幸せはこの力のお陰でもあるんだ」
「今は良い力でも……負の力になってしまったら、奏は……七海はまた……!」
「おい、何喧嘩してんだ!」
いつの間にか大声で言い争ってしまっていた奏と悠のもとに、買い物を終えたらしい馨が慌てて駆け寄ってきた。道行く人達が怪訝そうにこちらを一瞥し通り過ぎていくのも構わず、言い合う二人の間に無理矢理割り込み、馨は二人の喧嘩を仲裁しようとする。
「馨……」
「何があったんだ、話してみろ。また奏の力のことか?」
「……」
二人は何も言わない。奏は珍しくなんだか不安そうな落ち着かない顔をしているし、悠はそんな奏を見つめ、何かに焦っているように唇を噛み締めている。
奏の力のことであれば、あの常に無表情で余裕綽々な悠にこのような表情をさせるということは、事情はわからないが余程切羽詰まっているのかもしれない、と馨は察した。
そんなことを考えていると、突然悠は馨に問いかけた。
「馨。君は奏のことが好きなんだろう?」
「へっ!?も、勿論大好きだぞ!なんだよ悠、恥ずかしいだろ……」
予想外の質問内容に馨は驚いて変な声を上げてしまったが、赤面しつつ己の気持ちを正直に告白する。
そんな馨に対して、悠は至極真面目な表情で今度は奏に同じ質問を投げかけた。
「それじゃあ、奏は?奏は馨のことが好き?」
「……っ」
奏はその質問に何かを良いかけて、そしてすぐに口を噤んでしまった。奏の異変に馨も気付いたようで、きょとんとしながら奏の顔を覗き込む。
「?奏……?」
「……お、俺は……」
奏は馨から目を逸らす。そんなこと、初めてだった。
今まではどれだけこちらが奏を見つめようが、奏もじっとこちらの目を見つめ返してきて決して逸らすことはしなかった。
だが今のこの反応は、別に恥ずかしがっているとかそういう類の反応ではない。ただ、何かに酷く怯えている。そんな風に馨の目には映った。
そんな奏の反応を見、悠は畳み掛けるように続ける。
「……本当は好きだけど、それを言葉にするのが怖いんだろう。想いが通じてしまえば、力が弊害となり……どうなるかわからないのだから」
「……」
「奏、君はもうわかってるんじゃないか?過去の記憶が、そう警告してるんだろう」
「悠、もうやめろって」
馨は慌てて悠を止めた。これ以上言わせたら危険だと、馨の中の何かがそう告げているような気がしたのだ。
そして奏に向き直り、奏と目線を合わせ、子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
しかし「その時」はもう目前まで迫っていたのだ。
「奏、言ったろ。俺達の関係は少しずつでいいからって」
「……つ、でも……」
「え……?」
奏が小さく何かを呟いたが、馨はうまく聞き取れず首を傾げた。
「……少しずつでも、馨の想いを受け容れたら……俺はまた、馨を巻き込んで……不幸にしてしまう」
「な、なんでだよ!俺は奏と一緒なら絶対に不幸になんてならない!絶対にだ!」
「できない……これは、運命、だから……」
その時、奏の目を見て馨はハッとした。
奏の目が、いつだったか皆で地球へ行って初めて夕焼けを見た時の……微かに見えた「奏ではない誰か」の気配を宿していたのだ。
「!織女星としての記憶と力が覚醒しようとしている……!奏、早く力を俺に……!」
悠も奏の異変に気付き、慌てて奏の手を取った。しかし奏はすぐにその手を振り払い、
「嫌だ!俺はもう……誰も傷つけたくない!鶲も、鶫も、お爺様も……私自信も、誰も悲しい思いをさせたくない!」
そう叫んで、その場から走り去っていく。
「奏!どこ行くんだ!奏ーーー!!!」
「馨!どうしたの!?」
馨がすぐに奏の後を追おうとすると、紅袮の声がした。見れば反対方向から紅袮達が走ってこちらへ向かってきていた。先程の奏の声を聞きつけたのだろう。
馨は慌てた様子で紅袮達に簡潔に事情を説明した。
「ごめん、俺が奏を追い詰めてしまったから……」
悠は申し訳なさそうに、皆に頭を下げた。しかし馨は首を横に振る。
「俺も、奏の様子が少しおかしいことは途中で気付いたんだ。悠はそれで奏を助けようとしてくれてたんだろ、気にすんな」
「それで、奏はどっちへ向かっていったの?」
杏が訊ねると、馨は奏が走っていった道を指差す。
「あっちの森だ、俺が探しに行く!」
「ま、待って、森ですって……!?」
杏は突然血相を変え、森へ向かって走り出そうとしていた馨の手を掴み慌てて引き留めた。彼女は酷く動揺しているようで、星は不思議そうに首を傾げ訊ねる。
「どうした杏。向こうに何かあるのか?」
「……死の森と言われている……あの森は危険生物や植物が多くて、一度入った者は二度と出てこられないと言われているわ……」
「げぇっなんだそりゃ!探しに入ったら俺達もまずいじゃねえか!」
星は思わず叫んでしまった。そのような場所に奏は一人で入り込んでしまった可能性が非常に高いのだという。杏が血相を変えるのも無理はない。
「それでも、奏を連れて帰るんだ!」
「こうなった責任は俺にもある。俺も探しに行く」
杏のそんな話を聞いても、馨と悠は怯むことなく、ただ奏を助けに行くことだけを考えていた。
二人の表情は完全に覚悟を決めたという真剣な表情で、それを見た杏はもう簡単に二人を止めることはできないと悟り、ため息をつく。
「……仕方ないわね、私も行くわ。紅袮と星は凪様達が帰ったら報告しておいて」
「で、でも……大丈夫?」
紅袮が三人の身を案じるが、杏は「平気平気!」と明るく笑って見せた。
「伊達にこの歳で天帝様の重臣やってるわけじゃないわよ。悠だってあたしと張り合えるくらいの力を持ってるんだから、ちゃんと手伝ってよね!」
「わかってる」
悠も力強く頷く。
「よし、じゃあ今すぐ行くぞ!」
皆の準備が整ったと見るや否や、すぐにでも駆け出そうとする馨の手を、杏は再び引き留めた。
「ちょっと、張り切るのはいいけどね、アンタが一番危険なのよ!突っ走って魔物に食べられないでよ、ちゃんとあたしと悠の言うことを聞くこと!」
「ぐえっ、き、気をつけます……」
三人の中では、馨が一番ひ弱な存在であった。
体術は得意だが、何故か昔から妖精術をうまく使いこなすことができず、正直この中では一番足手まといな存在と言っていいだろう。
それでもそんな馨を誰も止めることができないのは、馨が誰よりも強く奏を想っているというのをわかっているからなのだ。
「それじゃあ、無事に帰ってくるの待ってるからな……!」
「気をつけて……!」
星と紅袮に見送られ、三人は森へ向かって走り出した。

奏はいつの間にか、森の中を彷徨っていた。
脇目も振らず一目散に駆け出してしまったからだろうか。一時的に、記憶が飛んでいるような気もする。
「……馨と悠に怒鳴ってしまった……ここ、どこだろう……」
あの時、自分が珍しく声を荒げてしまったのは覚えていた。おそらく、あんなに大きな声を上げたのは生まれて初めてではないだろうか。そんなことを思い少し痛む喉を押さえながら、奏は森の中を見回す。
──この森は、なんだかおかしい。
奏の六感が、奏にそう警告していた。
(ただの森、だけど……でも、ベガの森と雰囲気が全然違う。殺気がすごい……。自然がこんな風に俺を見てくるなんて、初めてだ……)
奏の持っている力は、自然が分け与えてくれた力だとかつて両親が話してくれた。だからなのか、奏は幼い頃から動植物達の声を聴き、彼らを癒やし、彼らに慈愛を与えた。自然も、そんな奏の力に優しく応えてくれた。
地球に行った時も、どこにいてもそうだったのだ。自然は常に奏の味方だった。
だがしかし、この森は違う。
この森がまとっている気は、今にも奏に牙を剥かんと、常に張り詰めたような殺気で満ちている。
その時、近くの茂みが音を立てた。奏はすぐに音のした方を振り向くと、おそらくは「犬」の類だったのであろう生き物が奏を狙っていた。
「グルルルル……」
「っ魔物……!?あ!」
奏はいつものように生き物の気持ちを読み取ろうと力を使おうとした。が、その力がいつもと違うことに気付き、慌てて使うのをやめた。
(さっきから俺の力、なんか変だ……!どうして……いつもはあんなに優しい力なのに、これじゃ、まるで……)
奏の脳裏に、先程悠に言われた言葉が蘇る。
──今は良い力でも、負の力になってしまったら……
これが、悠の言っていた「負の力」なのだろうか?
考えているその間にも、魔物はじりじりと少しずつ奏との距離を詰めてくる。気付いた時には、魔物は奏めがけて飛びかかる寸前だった。
「グアア!」
「!だめだ!近づいてはだめ!君を傷つけてしまう!」
奏は本能的にそう叫んでいた。すると同時、奏の体から溢れるように出てきた風の力が、まるで奏を守るように刃となり、襲いかかる魔物を切り刻んだ。
「ギャアア!」
「あ……!嘘、ご、ごめん、ごめんね……!俺、こんなつもりじゃ……回復魔術を……!」
血を流してその場に斃れた魔物に治癒術をかけようとしたが、魔物は既に息絶えていた。
奏は自分が初めて生き物の命を奪ってしまったことを知り、呆然としてしまう。信じられなかったのだ。受け容れられなかったのだ。自分のこの力が、自然がくれた力が、生き物の命を奪ってしまったということを。
しかし、状況は奏を更に追い詰めていく。呆然とする奏の周りには、無数の生き物の気配が集まってきたのだ。仲間の血の臭いを嗅ぎつけてきたのか、その気配はどれも、とても強い殺気を纏っている。
『テキダ……ナカマヲコロシタ……』
『ハイジョセヨ……』
力が、奏に彼らの言葉を伝えた。
「……っ」

──ああ……二度目に受けたこの生を、何のしがらみもなく彼と共に歩んでいけたら、それでよかったのに……

「奏ー!奏、どこだー!」
「いたら返事をして!」
暗い森の中、馨と杏の叫び声が響き渡る。何度も奏の名を呼んではいるが、返ってくるのは森の草木が風でざわめく音だけだ。
「うへえ、本当にすごい殺気だ……気を抜くと襲われそうだな」
「あたしもこの森に入るのは初めてだけど……凪様がこの森の生物が街に入らないように結界を張っている理由がよくわかったわ……」
この森に生息している生物も、植物も、全てが恐ろしいまでの殺気を放っている。まるで生きているものを全て排除するためだけに存在しているような、最早生物兵器の類といってもいい。
こんなものが街へ侵入したら、アルタイルの国はひとたまりもなくなってしまうだろう。
「……ところで悠は、さっきから黙ってどうしたんだ?」
奏の名を呼ぶことなく、悠はただ静かに馨と杏の後ろをついてきていた。
「……奏の気配を探っている。双子だから、奏の力の痕跡がわかるんだ。少しだけど」
「へ~、双子って便利だな」
奏の力を察知する為集中する悠を見て、馨は呑気に呟いた。しかし杏は落ち着かない様子で必死に奏を探している。
「でも、この森で攻撃魔術を使うのは自殺行為だわ……こちらが敵意を見せたら、すぐに魔物なり植物なりに襲われるわよ」
悠が奏の力の痕跡を辿っているということは、奏がこの森で何かしらの力を使っているということ。悠は、奏が立ち去る前の奏の様子をよく見ていたのだ。
杏の言葉に馨も息を呑む。
「ってことは奏の奴、今めちゃくちゃ危ない状況なんじゃ……」
「うん、力が制御できずに溢れかけている状態だった……こっち、強い力を感じる」
悠が指差した方向。そこは今まで歩いてきた場所よりも鬱蒼と木々が生い茂り、暗闇の世界が広がっている。
見ているだけでも悪寒がする程の殺気がピリピリとこちらへ伝わってくる。この先は明らかに今より危険な場所だろう。
だがそれでも、歩みを止める訳にはいかない。奏を連れて帰るまでは……
「よーし、こっちだな!うわっ!」
「ちょっと、大丈夫!?」
悠の指差した方向へ勢いよく走り出そうとした馨は、地面に落ちていた何かに足を取られその場に倒れ込んでしまった。
杏に助け起こされ、馨は地面にぶつけたらしい鼻を手で押さえながら起き上がる。
「ってて、草に隠れて見えなかったから躓いちまった……って、これ!」
「……魔物の死体……」
馨が躓いたものを悠と杏が確認する。よく見ればそれは、血を流して斃れている魔物の死骸だった。何かに切り刻まれたような深い傷が無数にあり、その傷はいくつか内蔵まで達しているようだ。恐らくは即死だったのだろう。
杏は死骸の様子を観察し、呟いた。
「まだ、さっきまで息があったみたい……もしかして、これ……」
杏の言葉に、悠が頷く。
「……奏の力を感じる。奏がやったんだ」
「う、嘘だろ……?あの、生き物にはなんでも優しい奏が……?」
悠の言葉を、馨は信じられなかった。それは杏も同じだろう。杏は兎に擬態していた時に奏に優しく看病をしてもらったことがある。奏が他の動植物達を大切にしていたのも、二人は半年生活を共にしてきて何度も見ていた。
その奏が、いくら魔物相手とはいえこのように残虐な殺し方をするなんて想像がつかなかったのだ。
「力が暴走してしまったのかも……さっきの奏は、織女星の力が覚醒しかけていたから」
極めて危険な状態かもしれない、と悠は悟った。
奏はこの魔物を殺してしまった。となれば、この森に住む他の魔物や植物達は完全に奏を敵とみなしてしまっただろう。
急いで奏を探さなくてはならない、と悠が奏の気配を探ろうとした時、杏が何かを見つけた。
「待って!これ……」
草の上に点々と残されている赤いもの。それは深い森の奥へ、まるで道標のように続いている。
「……血だ」
「う、そだろ、奏……!?奏!!」
悠と馨は息を呑んだ。
「まだ、奏の血だとわかったわけじゃないわ、落ち着いて!」
杏はパニックになりかけた馨を宥め落ち着かせる。しかし、杏自身も内心はかなり焦っていた。
「でも、この森で敵意を見せたら襲われてしまうんだろう?」
「……」
悠の言葉は、自分が先程二人に話した言葉だ。その話も凪から聞いた話ではあるが、実際に奏が殺めた魔物の死骸と、その近くから点々と別の場所へ伸びている血痕。そして奏はここにいない、というのを考えれば、凪の言っていたことはおそらく正しい。
杏は何も言えなくなってしまった。
「とりあえず、こうしていてもしょうがない。血はあっちに続いてるし、行くぞ!」
そう言って血痕を辿り走り出した馨を、杏は慌てて呼び止める。
「だから待って!あんまり突っ走るとそっちは……!」
「危ない!」
「うわっ!!」
瞬間、馨は足を踏み外した。というより、自分の進んでいた先に道はなかった。
先程よりも暗くなった森の中は、足元を目視することも困難になっていたのだ。
危うく谷へ落ちそうになった馨の手を、悠が寸でのところで掴んでなんとか事なきを得る。
「さっきよりも暗いから何があるかちゃんと周りを確認しなさいって……本当に危ないわね」
「あ、危なかった……ありがとな、悠」
「ううん、間に合ってよかった」
悠に引っ張り上げられ、馨は安心したように息を吐いた。しかし馨は自分の背がなんだかスースーするのを感じる。
「ん……?」
「背中……服が破けちゃってる」
悠が馨の背を確認すると、馨の背中の服はまるで何か鋭利なものでも引っ掛けたかのように破れてしまっていた。幸い服を引っ掛けただけで背中に傷は負わなかったようである。
杏が谷を確認すると、すぐ側の土壁に棘のようなものを生やした巨大な蔓がいくつも張っているのが見えた。
「これは、茨の谷なのね。随分と大きいものだわ……普通の茨がこの森の魔力で変質したのかしら。谷の底は……ううん、暗くてよく見えないわね」
谷を覗き込む杏の傍で、悠はふと、気が付いた。
「……血の跡、ここで途切れてるみたい」
見れば、先程馨が追いかけていた血痕は、馨が引っ張り上げられた谷の縁まで来て途切れていた。周りを見回しても、そこ以外に真新しい血痕は見当たらない。
「!まさか……」
馨の心臓がまた大きく鼓動を打つ。願わくば、この不安は、悪い予感は、気のせいであって欲しい。
そう強く祈ったが、悠が手の届く場所に生えていた茨の棘に何かが引っかかっているのを見つけた。
「これ……」
それは、真っ赤な血で染まったダークブルーの髪だった。

「奏……そんな……」
「……」
馨達三人はひとまず森から出、アルタイルの宮殿に戻ることにした。
三人が戻ると既に凪とクレスが帰宅していて、杏が事情を説明すると二人はすぐに奏を探しに森へ向かった。
残された馨達三人と、三人と奏の帰りを待っていた紅袮と星は俯いて何も語ることができないでいた。紅袮は特にショックを受けているようで、顔が真っ青である。
「……あんな大きな茨の谷に落ちたら……ひとたまりもないわ……」
杏も現実を受け入れることができないでいるのか、震えた声で小さく呟くことしかできなかった。
「……馨……」
紅袮と杏を案じつつ星は馨を見る。馨は顔を伏せていて、表情を窺い知ることはできない。だが、膝の上に置いた両手を相当力強く握りしめているようで、小刻みに震えている。
どのくらいの時をそうしていただろうか。静寂の中に扉が開く音が響き、全員その音を聞いて一斉に顔を上げた。
「戻りましたよ」
「凪兄様……」
部屋に入ってきたのは凪とクレスだった。森での奏捜索を終え、戻ってきたのである。
「全く、奏くんを助ける為とはいえ、あの森に私の許可なく入るだなんて……本当に、貴方達が無事でよかったです」
「ご、ごめんなさい……」
凪の叱責を受け、杏と悠は頭を下げた。しかし、馨はまだ上の空のようで
「でも……奏が……」
と力なく呟いている。
そんな馨の様子を見た凪はため息をついた。
「調べたところ、谷底には何もないようでした。勿論、谷底は一面巨大な茨の棘で埋め尽くされていましたから、落ちたらまず助からないのですが……」
「下には遺体どころか、血痕すらなかったよ。一体どこにいったのやら……」
凪に続いて、クレスも自分が見てきた状況をそのまま語った。
谷を探した後も森の中を隅から隅まで探したが、結局奏の姿は見つからず、二人は戻ってきたのだという。
つまり、奏は谷へは落ちていない。が、どこかへ行方を眩ませてしまったということだ。
「……そうだ、杏、番の契約は……!?奏と契約を交わしてるお前なら、奏と離れることができないんだろ!?」
馨が杏を問い詰めると、杏は申し訳なさそうに首を横に振る。
「ごめんなさい。どうも奏が織女星の力を覚醒しかけていたことで強制的に契約が切れてしまったみたいなの。織女星は星の精……この契約を結ぶことができるのは、ベガとアルタイルの妖精だけだから」
奏はベガの妖精だった。しかし、織女星としての力を覚醒させたことで、体も力も妖精から星の精のものへと創り変わる。奏はあの時、まだ完全には覚醒していないようであったがそれでもその力の片鱗が奏の体を精霊へと変えてしまった可能性が高いのだという。
馨は奏への手がかりをなくし、再び肩を落とした。しかし、その隣で静かに目を閉じていた悠が何かに気付き、呟く。
「……さっき、すごく微かなんだけど……奏の気配を感じた。奏は多分、消えていない」
「本当か!?」
「でも、居場所はわからない。本当に微かだったから、すぐに気配は捉えられなくなってしまったし」
悠は俯いて語るが、そんな悠の肩を紅袮が嬉しそうに叩いた。
「それでも、どこかで生きているのならよかった!早く奏を探そう!」
奏の生存を諦めていた一同は、悠の言葉でまるで希望を取り戻したかのように明るくなる。
居場所はわからなくても、気配が本当に微弱でも、少しでも可能性があるのならそれに賭けよう。
凪とクレスは皆の様子を見て、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「捜索に関してはやはり星の精の方達に頼むのが一番ですね。天帝様謁見の日取りを明日に早めてもらいました。明日、シリウス様も来るでしょうから、話を聞いた後捜索に入りましょう」
「奏の無事が気になるだろうが、今日はもう夜になる。明日に備えてよく休みなさい。特に杏達はな」
凪とクレスに促され、一同はそれぞれに与えられた客室へと散っていった。おそらくは皆、眠れない夜を過ごすことになるだろう。
ふと、悠は何かに気付いたように小さく呟くのだった。
「……もしかして、鶲……?」

『七海、お前は心を持たない。それは、お前の持つ力が強大過ぎるが故だ。この先、何があっても心を開いてはいけない。そして、誰のものにもなってはならない』

『七海っていうのか、いい名前だな!俺は鶲。よろしくな!』

『七海、お前は俺のものだ。俺は、お前と一緒に……』

『私は掟を破ってしまった……どうか、どうか……お爺様の手で……これ以上、誰も傷つけたくない……!』

『七海!七海、どうして……どうしてこんな……!許さない……絶対に天帝(貴様)を……!』

──やめて!これは俺が望んだこと。俺が望んだ結果。だから、鶲は……

鶲……?鶲って……

「か……お、る……?」
「あ、目ぇ覚めた?は~ほんま間に合ってよかったわ~」
奏が目を覚ますと、そこは全く知らない場所だった。以前連れて行かれたアルタイル星の精の宮殿とも違うようである。
だが、奏が眠っていたベッドの横には見知った人物が座っていた。奏の様子を見てくれていたらしい。
起き抜けでまだあやふやな意識の中で、彼が誰なのかを奏は考える。
「ええと……」
「あれ、すこーし前に俺達会っとったけど、もしかして忘れられとる?」
「……あ、悠と一緒にいた……ひさぎ……?」
「せや!よかった~覚えとってくれはって!」
名を呼ばれ、楸はほっとしたように笑った。
奏はベッドからゆっくり身を起こす。すると頭と足に激痛が走り、思わず顔をしかめてしまった。
「ああ、まだ起き上がらん方がええ。酷い怪我やったから」
奏は痛みにくらくらしながら、意識を手放す直前のことを思い出そうとしていた。
確か、魔物の群れに襲われて、足を噛まれて、それでも必死に逃げた。力を使えば使うほど魔物の数は増えていき、足元すら見えない深い森の奥まで来た時、奏は足を滑らせたのだ。頭を何かで切ったような激痛が走った後──その後のことは覚えていない。
「あーあ、髪、綺麗やったんに……まあ茨の谷に落ちかけたんや、髪だけで済んだなら儲けもんやな」
楸に言われ、奏は自分の髪に触れた。肩より下辺りまで伸びていた髪がばっさりと短くなってしまっている。そして指は頭に巻かれている包帯に触れた。よく見れば、噛まれた足も傷ついた腕も、体も、全て丁寧に手当てされている。
「……これ……俺のこと、楸が助けてくれたの……?」
正直、もう助からないと思っていた。楸の先程の話を聞けば、おそらく自分は最後、茨の谷へ足を踏み外したのだろう。
しかし、奏の問いに楸は少し言いにくそうに笑い
「ん、まあ、手当てしたんは俺やけど、助けたんは……」
「俺だ、七海。いや……今は奏、か」
「っ……!?」
楸の声ではない、だがよく聞き覚えのある声が聞こえ、奏は声の主を見、息を呑んだ。
そこには一人の青年が立っていた。馨にとてもよく似ている……いや、馨そのものだ。馨より少し大人なのだろう、少し高い背丈を見て、彼が馨ではない別の誰かだとかろうじて判断できた。
「全く、ようやっと器が完成した途端無茶やらかさんといてくださいよ。錬成するのほんま大変なんですから。あ~響にばれたら絶対怒られるやろなあ……」
「恋人の危機となれば助けるのは当たり前だろ。本当に間に合ってよかった……楸、お前回復魔術は使えないのか?」
包帯やガーゼまみれの奏の姿を見て、男は楸に問う。しかし楸は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「すんまへん、あまり得意ではないんですわ。とりあえず応急処置で傷を塞ぐまでが限界で……その辺は悠が得意分野さかい、今は悠がおらへんから……」
「……まあいい。この綺麗な顔に傷が残らなければいいんだが」
男が奏の頬に触れる。その手の冷たさに奏は背筋に悪寒が走るのを感じ、次の瞬間思わず彼のその手をはねのけてしまっていた。
男は少し驚いたような顔をしているが、奏は構わず男を睨みつける。
「っ貴方は誰?馨……に似てるけど、馨じゃない……」
奏の様子を不思議に思った男は、少し考えて「成程」と呟いた。
「確かに織女星の力は感じたが、俺のことを覚えていないのか……転生する時に記憶を閉ざしたか……?まあいいか」
何かを小さく呟きながら一人納得したように頷くと、男は奏の手を取って奏を見つめた。
馨と同じ男の瞳に、吸い込まれそうになる。奏は今度は抵抗することができなかった。
「俺は鶲。お前の前世、七海の恋人だ」
「ななみ……俺の、前世が……?」
奏は訝しげに鶲を見るが、鶲の表情は真剣そのものであり、とても嘘を言っているようには思えなかった。
鶲は再び奏の頬に、髪に、そっと触れて嬉しそうに呟く。
「この美しい容貌、声も、何もかもが愛しい……七海そのものだ……。なあ、楸もそう思うだろ?」
「ええ、まあ、せやな……確かに過去の七海はんと奏は瓜二つですわ」
鶲に話を振られ、楸も奏をじっと見つめて頷いた。
「……楸は昔の俺を知っているの?」
「いや、知らへんよ。大昔すぎてその頃は生まれとらんかったし。ただ、俺は人の転生前の姿を視ることができる。鶲のその器も、念から鶲の過去を視て作ったもんや」
「そう、なんだ……」
楸までそんなことを話すということは、自分の前世が七海という人であることは間違いないのだろう。
七海──そういえば時々、悠が言っていた。誰のことを言っているのかさっぱりわからなかったが、あれは前世の自分のことだったのだ。
奏は少しずつ、悠が必死に自分に伝えようとしていたことの意味がわかってきた。自分でも、自分の中の何かが常に警告音を鳴らしていたような気はするのだが、それはきっと七海だったのだ。七海も、奏を守るために奏に危険を知らせてくれていたのだ。
考えていると、奏は突然鶲に抱きしめられた。
「七海。お前とまた、こうして触れ合うことができるということ……俺はとても嬉しく思う」
「……っ違う、俺は七海じゃない!」
奏は思わず両手で鶲を突き放す。そして再び彼を睨むが、鶲はそれを歯牙にもかけず、ただ笑うばかり。
「名は改めているが魂は七海に違いない。その、お前の持つ五行の力もな」
「……っ」
「まあいい、お前は今まで奏として生きていたのだから混乱するのも無理はない。少し休んで、頭の中を整理するといい」
鶲は踵を返し、そのまま静かに部屋を出ていった。
残された奏に、同じくまだその場に残っていた楸が優しく声をかける。
「怪我もしとるし、少し休んだ方がええ。何かあったら俺を呼んでな。一応、あんたの世話係ってことになっとるから、俺」
「……うん、ありがとう……」
そして楸も部屋を後にした。
楸が奏の部屋を出ると、星明りが降る中庭の柱にもたれかかり、鶲は何かを考えているようだった。戻ってきた楸に気付くと、ふ、と小さく笑ったのが見える。
「織女星の力が覚醒し始めている。このままなら、奏が記憶を取り戻すのにそう時間はかからないだろう」
星の精の力と記憶はリンクしている。奏の場合、織女星の力が目覚めかけている状態。このまま完全に覚醒すれば、奏は七海の記憶を全て思い出すことになるだろう。ということは、鶲のことも。
しかし、楸はそれに一抹の不安を感じていた。
「なあ、あんたほんまに計画実行するん?このままやとまた七海が封印されるかもしれへん、そうならない為に……悠を使うつもりでいたんやろ?」
「随分と態度を変えたな、俺の計画に怖気づいたか?」
先程までの下手に出ていた態度はどこへやら、楸の真剣な忠告を聞いた鶲だったが、鶲は先程の妖しい笑みを浮かべたまま表情を変えることはなかった。
「七海を見て気が変わった。今の俺達ならできる。奏が、七海の記憶を取り戻せば……」

部屋に取り残された奏は、一人ぼんやりと部屋の天井を見つめていた。
最初に悠に攫われてきた時のようだ、と奏は思っていたが、あの時と違うのは、今は何だか、胸のあたりがざわついていてとても不安で仕方がないということ。
あの時は楸も悠も優しかったし、自分が何をされるのかとか、そういった心配は一切していなかった。
しかし、今は……

「俺は、誰なの……?また、一人になってしまうの……?馨……助けて、馨……」

第五章 【覚醒】 完