ちぇんじRevolution #2

第二章【杏】

七夕祭りの夜、織姫と彦星は運命の出逢いを果たし
二人は共に愛を育みながら幸せになっていくのです……

なんと彦星は、運命の相手となる織姫を間違えてしまったのです。
どうしても諦めたくない彦星。果たして彼は、運命の織姫と結ばれることができるのでしょうか

深い森の奥に建てられた一軒家。そこに、馨の織姫は一人でひっそりと暮らしていた。
織姫───奏は、自分から家を出てくることは滅多にない。
ブレウスの襲撃を受けた時に両親を亡くしてしまった為にクレスも彼のことは気にかけていて、食料や日用品の類は定期的に奏の元に届けられるようになっているし、元々インドア派な彼はこの家に引きこもり、たまに庭に出ては森に住む動物達と戯れ、自由気ままな生活を送っていた。
「で、奏っていつもこんなに時間にルーズなの?」
そんな奏の家の前に少年が三人、立ち尽くしていた。
奏の親友である紅袮と星、それから先日、このベガにやってきて奏と番の契約を結ぶはずだった彦星───アルタイルの妖精、馨。
今日は皆で街へ買い物にでも行こうと思っていたのだが、相変わらず奏は待ち合わせの時間になっても指定場所に来ないので、こうして皆で奏の自宅まで迎えに来たのだ。
「そうだよ。だから用事がある時は毎回俺が起こしに行ってるんだけど……」
「え、まだ寝てんの!?もう昼になるぞ!?」
「それもいつものことだから、もう慣れたよ」
紅袮は奏の自宅の裏庭に回り込み、綺麗に咲いている花の植木鉢を持ち上げた。するとその下に、一本の鍵が現れる。奏が紅袮達に教えた、合鍵の隠し場所なのだろう。
「じゃあ俺、奏を起こしに行ってくるから二人はそこで待ってて。喧嘩するなよ」
玄関の鍵穴に先程の鍵を差し込みながら、紅袮は二人に釘を差した。何故か星はやたら馨につっかかるのだ。
「紅袮が言うなら仕方ないな」
「紅袮が言わなかったら喧嘩ふっかけてたのかよ!?」
「あーもうはいはい、おとなしくしてろよ!」
とりあえず星の頭に拳骨を一つ落としてから、紅袮は奏の家の中へ入っていった。
なんで俺だけ……と頭を抑えている星はとりあえず放っておき、馨は奏の家をじっと見つめていた。
遠くから見た時は小さく見えたが、こうして見るとかなり大きな家だ。奏は両親との三人暮らしだったというが、三人で住むにしては大きすぎる家だ、と馨は少し不思議に思っていた。
それが、今は両親はおらず一人でここで暮らしているのだという。
広すぎる家で、たった一人きり。心細くはないのだろうか。
馨が胸を炒めていると、ものすごい勢いで目の前の玄関の扉が開き、見たこともない剣幕で紅袮が飛び出してきた。
「!?ど、どうした紅袮、早かったな。もう奏起きたのか?」
相当急いで来たようで息を切らしている紅袮の背中をさすってやりながら、星が尋ねた。
紅袮は乱れた呼吸を整えながら、先程自分が目にしてきた信じられない光景を話す。
「か、奏が……女の子と一緒に寝てる!!!」
「……!?!?!?!?」
三人は急いで、しかし静かに、極力足音を立てないように奏の家の中に入った。
家の中は馨が思っていた通り、とても広い。その家の二階、一番奥に奏の部屋はあった。
紅袮が静かに扉を開き、その隙間から三人は中を覗き込んだ。そこから見えるのは奏のベッドで、奏がその上に横たわって熟睡しているのがわかる。そしてその隣には、確かに誰かがいた。
ピンクの長髪。こちらから少しだけ見える顔つきは、紅袮の言う通り女性のようだ。歳は自分達と同い年くらいか。
「ピンクの髪……誰だ、ステラか?」
「ステラってあの小さい彗星の星の精だったよね。四歳くらいの」
「あいつ成長術が使えるらしいんだ。うーん、でも、ちょっと違うような……」
紅袮と星がとりあえず知っているピンク髪の女性の名前を挙げている横で、馨はあの顔に、どこか見覚えがある気がして頭を捻っていた。
「ピンク頭……ん?待てよあの顔……お前、まさか!!」
馨は彼女が誰なのかを確信したらしい。紅袮達が止める間もなく、馨は勢いよく奏の部屋に飛び込んだ。
勿論その音と声で部屋の主たちが目を覚まさないはずがなく、
「ふぁあ……もう何よ、煩いわね~……」
と、女性は大あくびをしながらベッドから体を起こした。眠そうに目を擦ったあと、彼女は目の前の馨を見てへらっと笑った。
「あら、馨じゃない。久しぶり」
「あ……あ、杏~~~~~~~~!!!!!!」
「ふへ……あれ、おはようみんな……」

一同はとりあえず、奏の家の食卓に集まった。
丁度昼時になっていたので、奏が作った軽い朝食を口にしながら、奏の部屋に突如現れた謎の少女の話を聞いていた。
「どうも!アルタイルの妖精、杏です。ちなみにそこの馨とは幼馴染でーす!」
「あ、ど、どうも……奏、お知り合い?」
杏の自己紹介に紅袮は軽く会釈をしてから、のんびりとトーストを囓っている奏を小突いた。
奏は首を傾げて昨夜のことを考えているようだったが
「……俺、昨日うさぎと一緒に寝たような気がするんだけど……」
と思い出したように、しかし曖昧に答えるのだった。奏の答えがはっきりとしないのはいつものことではあるのだが。
「あ、そのうさぎあたしなの!怪我してたんだけど、助けてくれてありがとうね」
「うん」
「ああ!昨日の朝奏が治療してたうさぎが杏だったのか!」
紅袮は昨日の朝、奏を迎えに行った時に奏が怪我をしたうさぎを回復魔法で治療していたのを覚えていた。あの後奏が森に帰していたのだが、あれは野生ではなく杏が擬態していたうさぎだったのだ。
おそらく昨晩奏が帰宅した後杏が再び奏の元を訪れていて、奏はただのうさぎだと思って彼女を招き入れ、共に寝ることにしたのだろう。
成程、と紅袮と星が納得していると、馨が何故か焦りながら奏と杏に詰め寄る。
「おいおいおいおい、ちょっと待て。奏もなんで普通に状況を受け入れてるんだよ……!」
「さっきから何イラついてんだ、お前の幼馴染なんだろ?」
星に落ち着くように宥められるが、どうも馨にとってはそれどころではないらしい。
「それは別にどうでもいいんだけど、問題は……」
「そうです!私がベガでうさぎの姿に擬態し、そしてこの姿になっているということは……この奏と番の契約を交わしたからなのです!」
「ぐああああああやっぱりいいいいいいいいい!!!」
馨の悪い予感は完全に的中していた。
「契約って、馨が俺を奏と間違って結んでしまった七夕祭りのあれだよね?」
紅袮が確認するように問うと、頷きながら杏は呆れたようにため息をついた。
「間違ったって……あんたほんと何やってんのよ……」
「う、うるさいな!奏の行動が予想外過ぎたんだよ!」
「契約って、でもいつの間に……奏もさっき、昨日のうさぎが杏だってことを知ったんだろ?」
星に問われるが、奏はまだ己の状況を理解しきれていないらしく、トーストを咥えたまま虚空を見つめてゆらゆらとしていた。とりあえず昨日あった出来事を細かく思い出そうとはしているらしい。
すると杏の口からとんでもないことが明かされたのだ。
「ああ、奏は覚えてないわよ。奏が寝てる間にやっちゃったし」
「!?さらっと答えたけど、それやっちゃっていいことなの!?」
思わず突っ込まざるを得なかった紅袮に続いて、馨も大きく頷きながら
「ほんとそれ!!いいわけないだろ!契約解消!こんなお付き合いは認めません!!」
声高に叫ぶが、杏はそんな馨に怯むことなく、尚も煽るように続けた。
「馬鹿ね~、この契約が簡単には解消できないのを知らないの?」
「身をもって知ってます!!!!」
現在の自分の状況を改めて突きつけられるようなことになり、馨はそれ以上何も言うことができなくなってしまった。元はといえば、自分がきちんと奏と契約を結んでいれば、このような事態が起きることはなかったのだから。
完全に言い負かされ縮こまる馨と「勝った」と言わんばかりにふふん、と鼻を鳴らしている杏。
その二人の間に挟まって我関せずと食事を終え「ごちそうさまでした」と手を合わせている奏。
「……なんか、更にややこしいことになってきたな」
「とりあえずクレス様と凪兄様のところに行こうか……」
星と紅袮の二人は、また新たに増えた問題にため息をつくのだった。

「つまりは、馨に恋のライバル出現!といったところですか……」
一同がクレスの元へ行くと、祭りの事後処理の為に既に凪がクレスの元を訪れていた。
昨日はいなかった杏の存在に二人は驚いていたが、ここに来るまでの経緯を説明され、二人はひとまず状況を理解する。
「しかしなんだってまあ、奏と契約を……」
別に特別奏に魅力がない、というわけではないのだが、奏はあのとおりの子である。それをよく知っているクレスは思わずそう漏らしてしまうが
「怪我をしたうさぎの姿のあたしを懸命に治療してくれるところに優しさを感じた、っていうか~、ぼんやりしてるところもなんだか守ってあげたくなるしね」
と、杏は嬉しそうに答えるのだった。
「……よくわからないけど……杏がこれから俺の傍にいてくれるってこと?」
「そうなるわね、そういう契約だし。これから一年間よろしくね!」
「うん……よろしく」
杏が差し出した手を、奏は珍しく少し微笑みながら取り、二人は握手を交わす。しかしそんな和やかムードの間に馨の叫び声が割り込んできた。
「だーーーーーーめーーーーーーだーーーーーーー!!!!」
「もう、うるさいわね!いちいち大声出さないでよ」
杏は耳を塞ぐがそれにも構わず、
「奏は俺のだ!俺と両想いになって契約を結び直すんだ!そう約束したんだ!な、奏!」
馨は奏の両肩を掴んで向き直り、真剣な眼差しで奏を見つめた。が、奏はきょとんとした顔で何も言わず、不思議そうに首を傾げている。
「かーーーーーなーーーーーーーでーーーーーーー!!!!!」
「奏にそういう返答は期待しない方がいいぞ。大体忘れてるから……」
クレスは泣きそうな叫び声をあげている馨を宥めた。
正しくいえば忘れているわけではないのだが、それを思い出すのに奏は普通の人より時間と労力を使うらしい。そして思い出すことを放棄することもままあるのだ。
「まあまあ、とりあえずは昨日も話した通り、馨は奏君を頑張って振り向かせればいいのです。そうすれば馨の誤契約は解消、奏君と契約が結び直され、杏ちゃんとの契約は破棄されることになります。奏君を取られたくなかったら努力あるのみですよ」
凪にも宥められ、馨は口を尖らせながら「まあ、そうなんだけどさぁ……」と呟いた。
「とは言ってもなあ、契約者と離れられない以上、ハンデありまくりじゃね?そこはどうすんの?」
星の言うとおりである。番の契約を結んだ者同士は基本、ある程度の距離から離れられないという力が働く。紅袮が暮らしているベガの宮殿と奏の自宅まではかなり距離があるため、馨が紅袮から離れて奏の傍に常にいる、というのは難しいのだ。
対する杏は奏と契約を結んだために常に奏の傍にいなければならないという状況。どちらが早く進展するか、最早想像に難くないだろう。
馨が不安を抱いている要因はそれだった。
星の指摘に凪は少し何かを考えていたが、思いついたように手を叩くと
「それなら、こんなのはどうでしょう。奏君の家で暫く皆でシェアハウスをするというのは。そうすれば馨も奏君と一緒にいられる時間が増えます」
という提案を出した。
しぇあはうす……?と聞き慣れない言葉に奏が再び首を傾げていると
「つまりは皆で一緒に住むということだな。いいんじゃないか?奏は今一人暮らしだし、楽しくなるとは思うが」
と、クレスも凪の提案を勧めた。
「皆で……紅袮も一緒に、俺の家に……?」
「まあ、そういうことだね。俺は別に、クレス様がそう言うなら構わないけど……」
「あ、紅袮が行くなら俺も!」
「星は関係ないだろ」
騒がしい二人の横で、奏は相変わらず無表情で、それでもこの提案について色々考えを巡らせているようである。そしてぽつりと呟いた。
「……皆が一緒に住んでくれたら、俺、嬉しい……かも」
奏のその言葉に、馨の表情がぱっと明るくなった。
「では決まりですね。馨、頑張って」
凪もふふ、と嬉しそうに笑うと、馨を応援するように勢いよく背中を叩いた。その衝撃に思わず噎せながらも、奏と杏を前に高らかに宣言する。
「げほっ、お、俺、頑張るからな!覚悟してろよ奏!それと杏!」
「はいはい、うるさくなるのは嫌だけど、凪様の提案ならしょうがないものね」
杏もアルタイルの妖精。アルタイルの長である凪の言うことには逆らえないのである。渋々ながらもその提案を受け入れることにしたようだ。
「よーしそれじゃあ……俺と奏の突発的シェアハウス開始だ~!!……というわけで、早速荷物まとめるぞ、紅袮!」
「ええ、今日からいきなり!?」
「はは、賑やかになりそうでよかったじゃないか、奏」
街外れの森の奥、両親を亡くしてからあの家で一人で暮らしていた奏を気にかけていたクレスも安堵した。このシェアハウスはきっと、奏にとっていい経験になるだろう。
奏もどこか嬉しそうな表情で「うん」とクレスの声に返事をした。
奏が皆に呼ばれ席から離れると、今まで皆を微笑ましく見守っていた凪の表情が急に変わる。そして静かに、横にいるクレスに話しかけた。
「……ところでクレス、最近、妙な気を感じませんか?」
凪の言葉に、クレスも静かに頷く。
「お前も気付いていたか」
「ええ、ベガに来るとこう……何か感じるんですよ。それから、私のアルタイルも。憎悪にも似た……いえ、これは悲哀、ですか……」
「俺も不審に思って少し前から氷雨達に調査を頼んでいるんだが、特にベガ国内で異常は見当たらないらしい。消失させたブレウスが何かを残していったのか、それとも全く別のものなのか……」
ブレウスが消失してから、三国を蝕んでいた負の力は全て消え去ったはずだった。ブレウスの襲撃によって命を落とした妖精達の魂は螢達が供養し、天の川へ送り届けてくれていたし、全てが綺麗に片付いた。そのはずだったのだが、ここ最近国の何処かで、異様な気が動いているのをクレスは微かに感じ取っていた。それはアルタイルも同様らしい。
「どちらにせよ、警戒しておくに越したことはないですね。またあの時のように忙しくなるのはごめんですよ」
「はは、それもそうだ。何か異常があったらすぐに知らせてくれ」
「ええ。クレスも」
そして二人は、そんな二人の心配をよそに楽しそうにこれからの計画を話し合っている馨達を見守るのであった。

簡単に荷物をまとめ、一同は再び奏の家にやってきた。
奏にきちんと中を案内され、改めて家の中を見てみるとやはり、三人で暮らすには大きすぎる家だと馨は思った。
まるでお金持ちの人の家のような……部屋数も多いし、とにかく内部の造りが普通の家のそれとは違う。
「部屋はいっぱいあるから、好きなところつかって……お掃除、できてないけど」
「それじゃあ、あたしはこの広そうな部屋を使わせてもらうわねーって、ゲホッゲホッ、ほんとにすごい埃……!」
広そうだと判断した部屋の扉を開けた瞬間、ものすごい量の埃が杏に襲いかかった。紅袮も他の使われていない部屋をいくつか確認して戻ってくると
「まずは大掃除からした方がいいかもな……多分奏は自分の生活圏以外全く掃除してないだろうから」
とため息をついた。
奏がブレウス襲撃の時に両親を亡くしたのが数年前。奏もずっと封印されていたから、この家は数年間誰もいなかったことになる。奏が封印から目覚め家に戻ってきた時に多少掃除はしたのだろうが、この広すぎる家だ。全てを掃除することは早々に諦め、自分が使用する範囲のみ掃除をするようにしているのだろう。
「とりあえず、まずは掃除だ掃除!ピッカピカにしてやるぞ~!」
馨は紅袮が引っ張り出してきた掃除用具を引っ掴むと、すぐに掃除に取り掛かり始めた。何故かとても楽しそうである。
「随分とやる気だな」
紅袮が不思議そうに見ていると、馨はまず箒で部屋の床を掃きながら
「俺、凪のところでも掃除とか身の回りの手伝いみたいなことしてたからこういうのは結構好きなんだ。特に広ければ広いほどやる気が出てくる!」
そう言って埃だらけだった部屋をみるみるうちに綺麗にしていく。
「へぇ~、あんたにそんな特技があったとは……じゃああたしの部屋もお願い!」
「いや自分の部屋は自分で掃除しろよコラ!」
「……ふふ」
杏と馨が再び臨戦態勢に入ろうとしたその時、小さく聞こえた笑い声に二人は思わず喧嘩もよそに声のした方を見た。
そこには、馨と杏は初めて見るであろう、楽しそうに笑い転げる奏の姿があったのである。
「か、奏が笑った……!」
「奏の笑顔とか、俺達も久しぶりに見るぞ、なあ」
星の言葉に、紅袮も思わず全力で頷いてしまう。
「だって、この家がこんなに賑やかなの、久しぶりだから……」
奏の笑顔の理由は、なんともささやかなものだった。
奏は一人暮らしではあったが、森にはたくさんの野生動物がいるし、綺麗な花もたくさん咲いているし、家には父の遺した書斎の本もたくさんあるし、寂しいと思ったことは一度もなかった。それが奏にとって当たり前のことだったからだ。
けれどこうして、自分の家の中が賑やかな人の声で溢れかえるのは本当にいつぶりだろう。
「奏……」
紅袮はかける言葉をなくしてしまった。が、その隣で感極まって今にも泣きそうな顔をしている馨が勢いよく奏に抱きつく。
「奏!!いつか二人で一緒に暮らして……賑やかな家庭を築こうな!!」
「うん?」
「はいはい、馬鹿やってないで掃除の続きするわよー」
こうして、奏の家で賑やかなシェアハウス生活が始まったのである。

部屋の掃除も終わり食と風呂も済ませ、一同は奏の家の屋根裏に布団を敷いて横になっていた。
「奏の家の屋根裏、星空が全部見渡せるなんてすごいわね……」
すっかり夜も更け、空は満天の星たちで埋め尽くされる頃。奏の家の屋根には特殊な魔術が施してあり、横になればまるで外にいるかのように、180度夜空が眺められるようになっているのである。
「父さんが星が好きだったから。いつでも、こうやって星空を眺めながら眠れるようにって、屋根裏を改造したんだって」
「へえ~、ロマンチストだったんだな」
馨も皆と同じように星空を見上げ、呟いた。
奏の父親が遺した書斎の本は童話や神話、伝承等、物語の類のものがとても多かった。加えてこの屋根裏の改造である。とてもロマンに溢れる人だったのだろう。
「俺も星を眺めるのは好き。あそこに見えるのが地球。太陽系」
奏の指差す先に、一際眩しく輝く恒星が見える。あれが太陽で、地球はその太陽の光を受け、青く美しく輝いていた。
「いつもクレスの書斎から自由に行き来しちゃってるけど、こうして見るとめちゃくちゃ遠いんだな……」
改めて感じる、ベガと地球の距離感に星もため息をついた。
「地球では俺達の星、ベガは織姫と呼ばれていて、アルタイルは彦星って呼ばれている。織姫と彦星、二人の恋の話が昔話として残っているんだって」
「それが七夕の伝説ってやつだな。それに倣って昔からベガでもお祭りしてるってわけだけど、まさかこんな面倒なことになるなんてな……」
「うう……それについては、紅袮には本当に悪いと思ってる……」
馨は思わず布団の中に潜り込んでしまった。そんな馨を見て奏はおかしそうにまた小さく笑いながら
「でも、そのおかげで皆とこうして、空を眺めながらお話ができる」
と嬉しそうに呟いた。
「いや待て、すべての元凶が自分だってことを忘れるなよな」
「……ぷぅ……」
「も、もう寝てる……こいつ……」
紅袮が奏にツッコミを入れた次の瞬間、奏特有の寝息が聞こえてきて紅袮は思わず悪態をついてしまう。全く、どこまでも都合のいい男である。
そんな奏を見て杏も笑いながら布団をかぶった。
「あはは、面白い寝息ね。あたしも眠くなっちゃった、おやすみなさい」
「おやすみ、杏。俺も寝よ~」
続いて星も布団に潜るが、隣で布団をかぶったまま大人しくしていた馨が急に布団から顔を出したかと思うと
「……奏が隣で寝てると思うとドキドキして眠れない……」
などとのたまうのであった。
「しょうがねえな、じゃあ特別に俺の電撃を一発食らわせてやるよ。よーく眠れるぞ~あ痛って!!!?」
「ああもう、馨は俺と場所変わって!それじゃさっさと寝ろよ!おやすみ!」
紅袮は星に拳骨を一発食らわせると、自分の枕を持って馨と寝る場所を変えに行く。
またなんで俺だけ……と星の不満そうな声が聞こえるが、気にせず紅袮もさっさと眠りについてしまった。
そして皆、満点の星空に見守られながら次々と夢の中へ堕ちていくのであった。

いつの間にか、馨は知らない場所に立っていた。
石造りの建物の中──こういった建物には、凪についていって何度か見たことはあった。おそらく神殿の類だ。
「あれ……?俺、確か奏達と一緒に寝てたはずなんだけど……」
夢の中にしては、やけに感覚がリアルだ。壁に触れてみれば石のひんやりとした冷たさが肌に伝わってくるのだ。ためしに頬を抓ってみれば、痛い。
「俺、夢遊病かなんかの気があるのかな……多分ベガのどこかなんだろうけど……」
神殿の中はひっそりと静まり返っていて、きっと誰もいないのだろう。外の様子はここからはわからないが、自分が眠った時間を考えれば、おそらく深夜のはずだ。幸い神殿の中は魔術が施されているのか所々石壁がほんのりと光っており、足元と道は目視することができる。
しかし見たことのない場所で一人きりということに、馨はひしひしと心細さを募らせていく。
「どこなんだよここ~……おーい、奏~杏~誰か~!いたら返事して……」
暫く廊下と思わしき場所を歩き続けていると、一際眩しい光が漏れている部屋が見えてきた。
青白く輝くその光に、馨は何故か見覚えがあるのを感じて足早にその部屋に近付く。
「なんだ、この部屋……っ!?」
部屋に辿り着き中を覗き込んだ馨は、飛び込んできたその光景に思わず目を疑った。
青白い光のカーテンのようなものの中に、自分を守るように体を丸めて閉じ込められている人がいた。その姿は、奏にとてもよく似ていた。
「奏!奏じゃないか……!どうしてこんなところに……!」
馨が慌てて奏の元に近付くと、奏は俯いていた顔を上げ、馨を見て首を傾げる。
「……泣いてるのか……?い、今助けるから……ぅ、わっち!なんだこれ、結界……?」
奏を助けようと手を伸ばすと、馨の手は青白い光に弾かれてしまう。どうやら結界のようだが、ただの結界とは異なるようだ。先程弾かれた手は麻痺したように痺れが残り、力が入らなくなってしまっている。
どういうことか考えていると、もう一人、人の気配を感じて馨は振り返った。
「鶲……?いや違うか、鶲はもう……」
「え……?」
そこには、奏と同じダークブルーの長い髪の人がいた。部屋の壁に力なく寄りかかり、呟くように声を漏らす。見た目はどことなく奏に似て少女のような風貌ではあるが、声を聞けば少年だということがわかった。
「その結界にはあまり近付かない方がいい。妖精であれば生気を徐々に吸い取られてしまう……」
「で、でも中に奏がいるんだ、助けないと……!」
少年の忠告も聞かず、馨は何度も結界に体当たりを試みるが、やはり何度やっても結界に弾かれてしまう。そして結界に触れたところから徐々に力が抜けていく。少年の言っていることは正しいようだ。
ふと、少年は馨の姿を見て何かに気が付いたようだった。「そうか……君が次の……」と力なく呟くと
「よかった、それなら……七海を任せられそうだ……」
とゆっくりその場から立ち上がり、馨に近付いていく。近付いてきた少年に気付いた馨は再び目を見開いた。彼の体は少しずつ光の粒になり、消えようとしていたのだ。
「!お、おいお前、消失寸前じゃないか!」
「七海が寂しくないように、ずっと傍にいたから……でも、流石にもう、限界みたいだ……君……名前は……?」
「馨……」
「馨、か……どうか……どうか七海を、守ってあげて……」
声を振り絞るように最期の言葉を紡ぐと、少年は馨の腕の中に倒れ込んでしまう。と同時、まるで力尽きたかのように少年は馨の腕の中で光の粒になって消えてしまった。
「えっ……お、おい!消えるな!消えちゃだめだ……!うわあああああ!!!」
泣き叫ぶ馨の背後で、もうひとりの人の気配が、叫んだ気がした。
「──…!」
「!奏……?じゃなくて、もしかして君が七海、なのか……?」
奏に似ているが、とく見ればその姿は女性だ。
七海は先程の少年が消失してしまったのを見ていたのか、結界の中で泣きながら何かを叫んでいるようである。しかし彼女の声は結界の存在のせいで馨の耳には届かない。
「──!!──!!!」
わかるのは、彼女が泣きながらとにかく悲痛な叫びをあげている、ということだけである。
「だめだ、結界のせいで何を言ってるのか聞こえない……って、結界に触っちゃだめだ!お前まで死んじまう!!」
「────……!!」
しかし馨の声は届くことなく、彼女は目の前の青白い結界に触れてしまった。瞬間、彼女の体はまるで青白い炎に包まれたように光り輝き、そして……──
「だめだあああああああああ!!!!!!」
最期に見えた彼女の顔は、とても安らかで、そして寂しさをはらんだような笑顔だった。

「馨!!」
「……はっ……!」
紅袮の呼び声で、馨は目を覚ました。
飛び上がるように布団から体を起こして辺りを見回すと、そこは間違いなく、昨晩眠りについた奏の家の屋根裏部屋だった。
「すごいうなされてたけど、大丈夫か?」
「奏……いや、七海は……?」
紅袮の心配もよそに、馨は再びきょろきょろと室内を見回す。
急に馨の口から出た聞き慣れない人の名前に紅袮達は顔を見合わせ、首を傾げた。
「ななみは知らねえけど、奏はまだそこで寝てるぞ」
星の指差した先を見ると、そこには言われた通り、いまだぐっすりと眠り続ける奏がいた。それを見た馨は、自分の気持ちが少しだけ落ち着いたのを感じた。
「なんか変な夢でも見たんじゃない?汗びっしょりだし、一回シャワーでも浴びてきた方がいいわ」
「あ、ああ、うん……夢、だったのかな……風呂、借りるわ……」
いまだ心臓はうるさく鳴り響き、嫌な汗が止まらないのが自分でもよくわかる。が、ようやく少しずつ、目が覚めた今が現実であるという感覚が身体に戻ってくるような気がした。夢の中で結界に触れてあれだけ動かなかった手も、足も、今は何事もなかったかのように思い通りに動かせるのだ。
ふらふらと屋根裏部屋から降りていく馨を心配そうに見送りながら、星は呟いた。
「相当酷い夢でも見たのか?顔も真っ青だったし……」
「ななみ、か……うーん……」
その横で、紅袮は先程馨が発した知らない人物の名前を何度も繰り返し呟いては首を捻っていた。
「心当たりがあるの?」
杏に問われるが、紅袮はやはりうーん、と唸った後
「いや、全く知らない名前なんだけど、なんだろうな。なんかこう、胸のあたりがざわつくというか……変な感じがするんだ」
と、自分の胸を押さえた。
「でも気のせいだと思う。さ、早く奏を起こさなきゃ」
そう言って笑うと、紅袮は毎度お馴染みの奏起こしの儀に入るのだった。
「……七海、か……」
杏は皆に聞こえないくらいの小さな声で呟いた。

「どうでしたか~シェア生活一日目は!」
宮殿へ向かうと、まず最初に凪がテンション高く皆を迎えてくれた。続いて凪の背後から現れたクレスが呆れたような顔で凪を横へと押しやり
「全く、なんでお前が楽しそうなんだ」
と言いながら皆を部屋へ招き入れてくれた。
一同は用意されていた席につくと、クラリスが淹れてくれたお茶を飲みながら思い思いの感想を口にする。
「俺は結構楽しいよ。皆でお泊りとかするの、初めてだったし……」
「あたしも~!奏の家って広くて色々快適なのよね~!ね、奏はどう?」
杏に話を振られた奏はゆっくりと首を傾げた。それから「んー……」と呟きながら虚空を見上げると、少しの間をおいて
「俺も、楽しかった……かな」
と呟いた。
「ったく、相変わらず曖昧な返事だな~」
星がすかさず突っ込むが、昨日の奏の様子を思い出せば、楽しかったというのは本当の感想だろう。
しかし、皆が和気藹々と感想を述べている中で、馨だけはどこか上の空といったような顔でぼんやりとしているのに凪は気付いた。
「馨はどうでしたか?……馨?」
「!えっ、あ、な、何?」
凪の声に、馨は驚いたように体を飛び跳ねさせ、慌てて返事をした。
「どうしたんだ、ぼーっとして」
クレスも心配そうに馨の顔を覗き込むが、馨は
「いや、な、なんでもないよ!何も!ちょっと寝不足かな、はは」
と何やら誤魔化すように笑うのだった。
馨の様子がおかしいことに一同は顔を見合わせ首を傾げるが、次の瞬間にはいつもの馨に戻って茶菓子をひたすら口に入れていたので、「ま、大丈夫でしょう」と凪は呆れたように肩をすくめた。それからふと思いついたように手を叩く。
「そうだ、折角ですから、今日はディレイスに行ってきたらどうですか?」
突然の提案に皆は驚いたような顔で凪を見るが、杏は特に目をキラキラさせ
「え……地球に行っていいの……!?」
と食いついている。
「生活していくのに色々必要になるだろう。妖精国で揃えるよりもディレイスの方が品揃えがいいからな、行ってきなさい」
クレスの許可も下り、杏は嬉しそうに飛び上がった。馨達も地球へ行く機会は滅多にないので、皆で顔を見合わせ喜びを隠せないといったように
「やったーーーーー!!」
と叫んだ。

ディレイス皇国。
地球に存在する巨大なラーマ―大陸の南にその国はある。
ラーマー大陸は遥か昔から南のナディア領と北のミンドルトン領に分かれているのだが、ディレイス皇国はナディア領を治めるディオ皇帝が城を置いている国である。
ディレイス皇国には、かつてこの国と妖精国を繋ぐ道があり、昔は人間と妖精の交流が盛んだったという伝承が伝えられている。現在はその道がどこに存在していたのか、遺跡も何も残されていないのでわからないのだが、半年程前、クリスタルの英雄たちがブレウスと戦った時に空間に歪が生じ、その影響でクレスの書斎とディレイス城内の廊下の崩れた穴から再び二国を行き来することができる道が現れたのだ。
場所が場所であるために公にすることはできない状態だが、事情を知っているベガの妖精達はクレスに許可をもらい、時々ディレイスに来ては買い物を楽しんだりしている。
「ちょうど良かったわ、シャンプーとか色々全部アルタイルの家に置いてきちゃったから欲しかったのよね~。地球のは品質がすごく良いって聞くから楽しみ~♡」
「お前あれだけ色々荷物持ってきておいてまだ足りないのかよ……」
「うるさいわね、女の子には色々と必要なのよ!」
「お前ら喧嘩するなよ……ほら、着いたぞ。よいしょっと」
杏と馨の最早恒例となる喧嘩に半ば呆れながら、星は異空間にぽっかりと空いている穴を覗き込み、そこから外へ出た。
星の後ろに続いていた馨達もそれに倣うように外へ出ると、そこはとても広く天井も高い、どこかの建物の廊下のようだった。
「ここは……どこなんだ?」
馨が辺りを見回しながら尋ねると、何度か来ているのだろう、紅袮は慣れたように
「ディレイス皇国のお城の中だよ」
と答えた。思わず馨と杏は声を上げて驚いてしまう。
「ディオさんのはからいで自由に出入りできるようになってるから大丈夫だぜ。あ、エルデ」
二人の反応を見て星は笑っていると、自分達の前を一人の女性が歩いているのを見つけた。
星に名前を呼ばれ、女性は静かに振り返り、星の姿を確認して嬉しそうに微笑んだ。
「あら、いらっしゃい、星に紅袮。今日は初めて見るお友達がたくさんね」
奏、馨、杏の顔を一人一人じっくりと見つめ、エルデは再び嬉しそうに笑う。
「あはは、色々長くなるからまた後で話すよ。今日は皆でディレイスに買い物に来たんだ」
「そうだったの、楽しんでいってね!あ、ところで星、零はそっちに帰っているのかしら」
「え、兄ちゃんなら昨日はうちにいたけど、今日はわかんないな」
「じゃあもし会ったら、週末買い物に付き合ってって伝えておいてちょうだい。それじゃあね」
そう言うとエルデは手をひらひらと振り、優雅にその場を去っていくのであった。
「はーい……相変わらず兄ちゃんの奴、エルデにこき使われてるんだなあ……」
エルデのショッピングに付き合わされれば、荷物持ちとして働かされ丸一日は確実に潰れるだろう。
星は己の兄を気の毒に思っていると、ふと杏達がエルデの去っていった方を見つめながらぼんやりとしているのに気付いた。
「おーい、どうしたんだよ」
星が声をかけると、三人は我に返ったようにハッとなった。
「い、今のは……?」
「この国の皇女様。エルデだよ」
「ええっ!てことはお姫様……!?素敵……とっても綺麗な人だったもの……」
杏は再びうっとりとする。やはり女性にとってああいったお姫様には憧れというものがあるのだろう。
まあああ見えてエルデは柔道黒帯、空手七段、女子や年下の男子には優しいが自分の気に入った男は下僕のような存在として容赦なくこき使う、という性格の持ち主なのだが……それは言わない方がいいだろう、と星は一人頷いていた。
「ところで奏はこっち来てから一言も喋ってないけど、生きてるか……?」
星が声をかけながら奏の目の前で手をひらひらさせると、奏はようやく意識が戻ったように目をぱちくりとさせ
「あ……うん、色々すごくて……びっくり……」
と今言える精一杯の感想を述べた。そんな奏を見て紅袮も笑いながら頷いた。
「あはは、わかるわかる。俺も初めて地球に来た時はとにかく驚きの連続だったもの」
そんなことを話しながら、一同は城の外へ出る。そこには、妖精国とは全く違った、見たこともない世界が広がっていた。
水色の空に太陽が眩しく輝き、白い綿菓子のようなものが浮かんで流れている。
ディレイスは南国であり、現在の季節は初夏。じりじりと太陽が照りつけ妖精国にはない暑さが皆を襲う。が、すぐ傍にある広い海から吹く風がとても爽やかで、不快感は全くなかった。
何より杏の表情を輝かせたのは、街の賑やかさだ。
「わああ、お店がたくさんで目移りしちゃう!ねえ、まずはあそこのブティック行きましょ!」
「お、おいこら、俺は別に服に興味はないって……!」
杏は馨の腕を引っ張ると、有無を言わさず目の前の店めがけて走り出す。馨は多少の抵抗はしたが、為す術もなく杏とともに店の中へ吸い込まれていくのだった。
「すごいはしゃいでるなあ……奏、俺達も行こう、案内するよ!」
「うん、ありがとう、紅袮」
「あ、おい待てよ~!」
二人に続いて、紅袮、奏、星の三人もディレイスの街に向かって走り出した。

「ぐはーっ疲れた……杏の奴、あちこち連れ回しやがって……」
買い物もひと通り終了し、馨と奏は海が見渡せる高台のベンチに腰を下ろして休憩をしていた。
「俺も……ちょっと疲れた……」
奏は普段引きこもりであるため、こんなにも長い時間外で買い物をするのも久しぶりだった。馨の隣でベンチに腰掛けると、ぐったりと空を見上げている。
「案内役でまだ杏に連れ回されてる紅袮と星が気の毒だな……って」
ふと、馨は気が付いた。ひょっとして、今自分は奏と二人っきりの状況なのでは?と。
周りを見ればここはデートに最適な場所となっているのか、海を眺めているカップルがちらほら存在していて馨は思わず顔を赤くしてしまう。そして運悪く、奏にそれが見つかってしまった。
「……どうしたの?顔、赤い」
「なっななななんでもない!」
「そう?」
慌てて誤魔化すが、奏は尚もじっくり馨の顔を覗き込もうとする。が、すぐに何かに気付いて海の方を見た。
「あ、そうか……赤いのは、空が赤いから……」
奏の言葉につられて馨は顔を上げると、目に映る光景に思わず声が漏れた。
「うっ、わあ……すごい……!空ってこんな色になるんだ……!」
海の方へ沈みゆく太陽。明るかった空は徐々に夜へと移り変わっていく。今はその最中であった。
空は沈みゆく太陽の光に照らされ真っ赤に染まり、海の色を赤くキラキラと輝かせている。これは太陽のような恒星が近くに存在しない妖精国では見ることができない、夕焼けという現象だ。
二人は暫く、その光景に目を奪われてしまった。やがてゆっくりと、しかし夕焼け空から目を離すことなく、奏は小さく呟く。
「……地球って、すごい。空が青くて、綿菓子が空に浮いてて、こんな風に赤い色にもなる……。木や花もたくさんあって、海はとても広くて、果てしなく遠くまで続いている……これが、俺がいつも遠くから見ていた、地球……」
「……奏……泣いてるのか?」
馨に言われ、初めて自分が泣いていることに気付いたらしい。奏はハッとなって自分の頬に伝う涙を拭うと、驚いたように濡れた指を見つめていた。
「……?あれ?感動しちゃったのかな?」
「奏が行っても本当に感動してるのかわかりにくいな」
その時、馨の脳裏に何かがちらついた。奏が涙を流す姿が、それまで忘れていたある人物の姿を思い出させたのだ。
(……っなんで、今ここで七海がちらつくんだ……?)
確かに七海は奏にとてもよく似ていたが、奏は男で、七海は女性だった。関係は、ないはずだ。
泣きながら、それでも寂しそうに微笑み、消えていった七海の最期を思い出して馨は胸が強く締め付けられるのを感じていた。
奏はそんな馨の様子には気付くことなく、再び空を眺め続けていた。
空は少しずつ赤色から紺色に染まっていき、いよいよ夜が降りてこようとしている。
「地球は幸せなものがたくさんある……だからお話も、幸せなお話がたくさんあるんだ」
「え……?」
「俺、本を読むのが好き。父さんが、ご先祖様が地球から取り寄せた本をたくさん持っていて、俺もたくさん読ませてもらった。とても、幸せで心が暖かくなるお話が多いんだ。昨日話した七夕の話もその一つ。でも……」
馨はドキリとした。そう語る奏の横顔は、まるで奏ではない、別の誰かのように見えたからだ。
「七夕のお話は、本当はもっと、とてもつらい……」
「……奏?」
馨に呼ばれても、奏は馨の方を見ようとしない。ずっと、海へ沈んでいく太陽を見ながら、まるで何かに操られているかのように淡々と、しかしどこか悲しそうに呟くのだ。
「そんな、気がするんだ。だから……俺は、馨の気持ちに応えるのがこわい」
「……っ」
「七夕のお話は、決してハッピーエンドではない……そう思うと、俺は……」
馨はその時、まだ奏が何を言っているのかわからなかった。だが、自分達を七夕物語の織姫と彦星に重ねて、そしてその未来を悲観しているというのは理解できた。
しかし馨が知っている七夕物語は、最終的に二人は年に一度、七月七日の夜にだけ逢瀬が許されるというハッピーエンドだったはずだ。凪にも何度も話してもらった。それだけは間違いないはずなのだ。
「奏!!」
「っ!!」
馨は奏の肩を掴んで無理矢理こちらを向かせる。すると奏は驚いたように目を見開き、馨の目を見つめた。その瞳にはまだ、奏ではない別の誰かが宿っているように見える。が、目の前にいるのは間違いなく奏なのだ。馨は自分にそう言い聞かせた。
「それでも、俺は絶対に奏との出逢いをハッピーエンドにしてやる!!」
「馨……」
「だから、その……ええと……ちょっとずつでもいいから、俺達、頑張って歩み寄っていこう。な!」
そう言って笑うと、不安そうだった奏の表情が、瞳が、元の奏に戻ったような気がした。そして奏はゆっくりと頷き、消え入りそうな声で
「……うん……ありがとう」
と呟いた。

──七海を守って……

その時、馨の頭の中で、昨晩の夢の中で出会った少年の声が響いたような気がした。

第二章  【杏】  完